FL31 初恋は音楽 15. 音楽のないアイドル?

投稿者: | 2023年5月12日

この章にはもう少し話があるのですが、それは次回に持ち越させてもらいます。

 

目次紹介

“Music Was My First Love”
初恋は音楽

 

 

15. 音楽のないアイドル?
 Idols without Music? 

 

これまで書いてきた私のアイドル達と同じように、私自身と私のキャリアに強い影響を与えたアイドルについても少し語りたいと思いますが、その人たちとの繋がりは音楽を通じてではありません。

 

私は昔から夢見がちな人間でした!子供たちが成長するように、私はいつも他の誰かになりたいと思っていました。ラテンダンスでは、始めはヴォルフガング・オピッツ(Wolfgang Opitz)に、その次はエスペン・サルバーグ(Espen Salberg)になりたいと思いました。ボールルームでは私の秘密の「第二の」父、ビル・アービンの様になりたいと思っていました! そうした人たちの足跡に足を踏み入れたかったのです。同時に、私がベストを尽くして指先までの振り付けをするときにインスピレーションを与えてくれた、シナトラやフレッド・アステアにもなりたいと思っていました。

ビル・アービン80歳の誕生日を機会に、私は遂にフランク・シナトラに変身しました。とは言え、ロジャース・アンド・ハート(Rodgers & Hart)の「Lady Is A Trump」の歌詞を書き直しただけですから、子供の誕生日に歌ってあげるようなものでしたが、歌の入っていない「Lady Is A Trump」を使ってビルの誕生日に歌いました。歌い方については指導書を使って数週間練習しましたが、問題は私の恥ずかしがり屋をどう克服するかでした。そこで私は、それまで読んだアイドル達のことをすべて、自分の歌に注ぎ込むことにしました。私の自信というものは、ほとんどの場合、自分が実際に何かをマスターしているという確信から来ているので、たとえ気軽な会話であっても、自分が知らない話題に口を挟むようなことはできません。気まず過ぎます!この歌の場合にしても、いろいろ準備を重ねる内にダンスにとてもよく似ていることに気づきました。それは、繰り返しの練習だけが私に自信を与えてくれるということでした。さもなければ、あんなに大勢の前で歌う勇気はでなかったでしょう。練習無しで臨むのは、車で一人で長距離移動する時くらいですよ!

(注: Rodgers& Hart:作曲家Richard Rodgers(1902年 – 1979年)と作詞家のLorenz Hart(1895年 – 1943年)のアメリカの作詞作曲パートナー。彼らは1919年から1943年にハートが亡くなるまで、28のミュージカル舞台と500以上の曲で協力しました。ウィキペディアより)

 

歌った結果、即興する余裕ができましたし、自分を含めて多くの人を驚かせました。余裕を感じた理由は、もしかすると、「一度評判を落としてしまえば、あとは、恥を考えずに生きていける」のモットーで生きていたからでしょうか? その後、この歌を歌って欲しいと二度頼まれました。1回はビルの通夜で、もう1回は1年後のビル&ボビーの大きな追悼番組でした。既にお話したように、ビル&ボビーは私のダンスの先生であっただけでなく、私のインスピレーションでもあり、私の第二の両親でした。歌でスタンディング・オベーションを受けたのは、そのときが初めてでした。しかもイギリスで!今後はないことでしょう。以下は、私が追悼番組で歌った私のオリジナル歌詞です。

メモ:この「追悼番組」はこのリンク先の 「私の好きなレクチャー10 ”An Audience With” Tribute to Bill & Bobbie Irvine」で見られます。1時間20分近い番組ですが、日本語のアテレコが入っていますので是非ご覧ください。オリバーの歌の場面は1時間3分過ぎからです。

“Bill Irvine was a Champ”

He wasn’t hungry for a dinner at eight,
He liked to teach dance and never came late,
And when he touched you, you simply felt great,
That’s why Bill Irvine was the Champ.

He was a Scotsman, and where he appeared
On all the parties for him everyone cheered
But we had to watch him or he just disappeared
That’s why Bill Irvine was the Champ.

He loved the free swing from the work of the feet
Done on just the right beat. Chest flat – That’s that!
He made you flying ‘cross the floor without a cramp
That’s why Bill Irvine was the Champ.

For every problem that man had just the right key
He was a very special man, that was easy to see,
I guess that is why the Queen gave him the M.B.E.
And that’s why Bill Irvine was the Champ.

He was my hero, my emotional touch,
He was my second father; I still love him so much!
He lifted my ego, and in the Foxtrot my crotch.
That’s why Bill Irvine was the Champ.

Today we honor you and your wife
Man! What a Life! I miss – Your Kiss!
In our Dance World you sure left your Stamp!
That’s why Bill Irvine, That’s why Bill Irvine,
That’s why Bill Irvine was the Champ.

(to sing to the melody of: “The Lady is a Tramp” from Rodgers/Hart)

 

私は何になりたいか、誰になりたいか、いくつかの考えを持っていましたが、その一つは、多くの男性も同じと思いますが、ショーン・コネリー卿のような男です。そして、できるのであれば、ジェームズ・ボンドの007に。飛行機のファーストクラス、ドンペリにベルーガキャビア、群がる美女たちなど。しかし、これを想像しているのは、もはや、恥ずかしがり屋の自分ではありません。そして、常にビシッと決めているハンサム男。要は本物の男ということ!

残念ながら、この妄想の時点で、自分はビーチを歩いているときに女性を振り向かせるようなタイプの男ではないことを認めなければなりませんでした! この重要な前提条件が明らかに欠落していました。とはいえ、ボビー・アービンだけは光栄なことに、海水浴シーズン終わりのビーチに向かう私に振り向いてくれたことがあります。そして大声でいいました。「見て!牛乳配達が来たわ!」(前に話したことがありますが、私は決してうぬぼれたこともなければ、うぬぼれ屋ではありませんから!) それでもボビーに気づかれたなんて、真の資質を持った男ってことじゃないですか? 007を夢見る前は、テレビ番組「アベンジャース(The Avengers)」でパトリック・マクニー(Patrick MacNee)演じるエージェント、ジョン・スティード(John Steed)が大ファンだったので、彼を真似て学校にビジネス・スーツで行ったことさえあります。その結果、クラスの連中から随分馬鹿にされました。振り返ると、当時8歳の私に、英国式傘や山高帽が手に入らなかったことは幸運なことでした。

まとめると、いつも自信に満ち溢れている、エレガントな着こなしの紳士姿に憧れを抱いたことになりますが、しかしそれを、ダンサーという職業で存分に発揮することができたのです。確かに、この憧れは私の成長に強い影響を与えました。ショーン・コネリー卿の場合は、いつまでも私の憧れでした。彼は100万人に一人のカリスマを持った人でした! ついでの話になりますが、私は女王陛下のシークレットサービスにはなれなかと思います。鏡の中の自分の姿を見る度に、その憧れは薄れていったからです。やはり、ショーン・コネリーの方が上手かったと思います!

 

私は、ハリウッドの一人の女性ダンサーにも魅せられていました。昔のミュージカルでは、スタジオの政策のお陰で、フレッド・アステアやジーン・ケリーのパートナーとして活躍する幸運を手にした女優が何人もいます。当時の俳優は、男女の区別なく総合的な教育を受けていたことを理解しておかなければなりません。彼らは自分の専門分野のスペシャリストでありながら、他の技術も学んでいたのです。

シド・チャリシー(Cyd Charisse)はよく訓練されたバレエダンサーでしたが、背が高すぎたため、バレエでのキャリアを望むことはできませんでした。私のお気に入りの女性ダンサーとは、まさに、このシド・チャリシーでした。彼女がハリウッドから受けた最初のオファーは女優ではなくダンサーとしてでしたが、彼女はその後ハリウッドを離れることはありませんでした。彼女の色気も交えた上品さは唯一無二で、そこに強引さは見られませんでした。フレッド・アステアとのダンス・ナンバーで、彼女はアステアの多様性を要求しました。この対等な関係の彼女と共演した時のフレッド・アステアほど、魅力的に見えたことはありません。彼自身、シドは「美しいダイナマイト」だと語っていた程です。「The Band Wagon」と「Silk Stockings」を見れば、その意味する所が分かるでしょう。一方、彼女は「雨に唄えば」の妖女役としても完全に説得力があり、ジーン・ケリーにも限界まで求めました! 「雨に唄えば」が今でも不滅の人気を誇るのは、きっとそのためでもあるでしょう!

ロンドンのヴィクトリア・パレス劇場で彼女のライブを観たことがあります。ミュージカル「チャーリー・ガール」でバルコニーに登場したとき、彼女のカリスマ性が絶大で、誰もが振り向いた程でした。当時60歳を過ぎていたにもかかわらず、貴族的な振る舞いは失われていませんでした。終演後、私は舞台袖で待っていたのですが、どうやら、そこには2種類のファンがいました。一つは、男性主役のポール・ニコラス(Paul Nicholas)を待つグループでした。彼はヒットパレード「7階の天国」で旋風を巻き起こし、主に若い女性のファンを引きつけていました。私はもう一つのファンの方でした。当時、チャリシーはダンサーとしてではなく、主にテレビを中心とした仕事を沢山していましたが、素晴らしかったMGMの時代は終わっていたので、本当の筋金入りのファンしか劇場を出てきた彼女に気づきませんでした。彼女はとても高価なコートを着ていて、ロールスロイスの運転手が待っていました。あなたは、どこまでハリウッドスターでいられますか?と考えつつ、念願のサインを貰うことができました!

 

私はクラシックバレエの人と友達になったことはありません。その理由の1つは、おそらく、バレエの芸術性とアクロバティックな振り付けにかなり大きな比重が占められている点だと思います。もう一つの理由は、男性も女性も事実上中性的に見えることです。男性のモダンバレエパンツの優雅さには、男性らしさを保護する機能も備わっていて、そのフィット感に応じてピーナッツからバナナ、アボカドまでいくつかの果物の形がありますが、その優雅さがあっても、私の考えが変わることはありませんでした。

 

1985年、映画「ホワイトナイト」を映画館で見たときも同じ考えでした。男性主役は、余りにも早く亡くなった80年代のタップダンス王であるグレゴリー・ハインズ(Gregory Hines)と、70年代にカナダの公演ツアー中にカナダに亡命したロシアのバレエスター、ミハイル・バリシニコフ(Mikhail Baryshnikov)でした。しかし、バリシニコフの中に、間違いなく男性らしい最初のバレエダンサーを見たのです! 

彼の強いカリスマ性に魅了されました。また、彼は顔の表現も使って踊っていましたが、にやけた表情は一切ありませんでした! 遂に感情をあえて表に出すバレエダンサーが現れたのです。それは、顔を含む彼の体全体から見ることが出来ました。彼のメランコリックで機知に富んだ表現や皮肉っぽい表現、恋しているような表現を見て、私はとても共感できました。しかもそれらは、とても到達できそうもないレベルの技術でした。彼をそこまで突き動かしたのは何だったのか? 他のスター達の例ですでに見てきたように、スターには才能の他に、通常のレベルから抜け出すための膨大な努力と、自分の体に対して拷問のように鍛え上げる訓練が必要です。彼が教わっていた(ラトビアの)リガ(Riga)のバレエ教師は彼にバレエを止めるよう言いました。理由は、彼のプロポーションがバレエの理想像と一致しないからという事でした!

そこで、バリシニコフは荷物をまとめて、今日サンクトペテルブルクとして知られる場所に引っ越し、一人の有名な教師に身を委ねました。その人はアレクサンドル・プーシキン(Alexander Pushkin)です。バリシニコフは彼を信頼し切っていました。プーシキンは多くの才能ある人たちをスーパースターにした人です。中には西側に亡命する人もおり、その代表的な例は、ルドルフ・ヌレイェフとナタリア・マカロワ(Rudolf Nurejev and Natalia Makarova)です。プーシキンは若いバリシニコフにとって父親のような存在であり、バリシニコフは彼を信じていました。プーシキンはバリシニコフに自分のアパートで住むことを許可しました。従って、バリシニコフは、しばしば乱雑で込み合っている劇場の寮に住む必要がありませんでした。あのリガでの教師による不当な評価、そして、彼の才能が受け入れられなかったことへの反発心が、ここでのバリシニコフの大きな原動力となりました。

*ルドフル、1961年フランスに亡命  *ナタリア、1970年イギリスに亡命

 

幸運にも私は、フランクフルトのヤールフンダータール(Jahrhunderthalle)で行われた “White Oak Dance project” のステージで彼を見ることができました。その夜の公演自体は好きではありませんでした。振り付けは、抽象的に表現すれば、余りにもアバンギャルド(前衛的)過ぎでしたし、不要に長すぎて、一体何を見せられているか全く理解できませんでした。疑う余地のない素晴らしいダンサー達が何のモチベーションもなく舞台を跳ね回り、そして、互いの頭を触れ合っていました。この頭を触れ合う動きだけは、触れ合っていると理解できました。その時使われた曲は、コンサートが始まる直前に行われるチューニングの音を想起させました。しかし、バリシニコフがステージに現れるや、そうしたことは総て許し、忘れ去られました。あらゆる彼の動きは素晴らしかったからです。ミハイル・バリシニコフの踊りはジェラシーの境界線を飛び越えていました。

 


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