#025 私の好きなレクチャー10 ”An Audience With” Tribute to Bill & Bobbie Irvine

投稿者: | 2020年4月18日

レクチャーではありませんが、私の好きな映像のひとつを紹介します。2009年のUKコングレスで行われた亡きビル&ボビー・アービンさんを偲ぶ貴重な対談映像で、特にプロのダンサーは興味深くご覧になられることでしょう。2010年発行ダンスウイング52号の付録DVDになりました。

当時、スタジオひまわりの海外部とダンスウイング編集部の両方に携わっていた私は、日本のダンス界にこうした良質のレクチャーを提供できることを心底嬉しく、また、それができる仕事を誇らしく思いました。

📌スタジオひまわりのツイッター

 

 

“An Audience With”
Tribute to Bill & Bobbie Irvine MBE

※YouTubeは限定公開にしてありますので、ここだけでご覧ください。
*This video is ‘limited release‘ for this blog. Do Not Copy and Upload in YouTube or other SNS.

出典:Dance Wing 52 January, 2010
英語監修:Geoff Gillespie
レクチャー翻訳/アフレコ:神元 誠

 

 

◇ ◇ ◇

 

日本語の書き出しを紹介します。文字で読むと、また別の発見があることでしょう。

 

MC: 今日ここに日本から、スタジオひまわりという会社が来ておられ、午後のコングレスすべてを収録されています。DVDを購入したい方は、出店会場の中にスタンドが出ていますので、そこで注文書に書き込んで申し込みすると、後日発送して下さいますので、よろしくお願いいたします。

さて、私の後ろでソファなどが運び込まれていますが、今までのコングレスをご覧になられた方達は、これが「アン・オーディエンス・ウイズ」で、ダンス界の有名な人が登場するのだなと思われることでしょう。しかし今回は少し趣向を変えました。アン・オーディエンス・ウイズというより,あるカップルを讃える番組にしました。進行をして下さるインタビュアーをご紹介しましょう。グレッグ・スミスとジョン・ケミンズです。

 

Greg Smith:  皆さん,こんばんは。ビル&ボビー・アービングを讃えるプログラムへようこそ。

実は7年前、ダンスニュースが素晴らしいアイディアを思いつき、ダンス界に功績のあった方達にスポットライトを当ててご紹介しようというものでした。最初に選ばれたのがビル&ボビー・アービン。これは難なく決まりました。

その時ジョンと私は、お二人をご紹介することが出来、大変光栄でした。しかし、ビル&ボビーはもうおりません。そこで、お二人を忍び、この追悼会を企画いたしました。お楽しみください。では、ジョンお願いします。

 

John Kimmins: ありがとうグレッグ。みなさんこんばんは。それではビル&ボビーと親しかった人たちをお招きしましょう。来ていただくのは、みな、世界チャンピオンです。ドイツからオリバー・ヴェッセル。次にご紹介するのは、アンドリュー・シンキンソン。もちろんマーカス&カレン・ヒルトンM.B.E.にも加わっていただきましょう。

 

Greg Smith: みなさんこんばんは。心地よい集まりですね。まず始めにビル&ボビーの輝かしい競技会成績をについて述べて行くことにしましょう。彼らは、

・ナインダンスの世界チャンピオンを3回、
・ラテン・プロフェッショナル世界チャンピオンを3回、
・プロ・ボールルーム・チャンピオンを7回、

・インターナショナルを2回、
・ステナー(不明)6回、
・ヨーロピアン・チャンピオンを2回、

・ブラックプール・ボールルーム・チャンピオン4回、
・ブラックプール・プロフェショナル・ラテン・チャンピオン1回、

などのタイトルを獲得されています。驚くべき戦績ですが、これはほんの一部に過ぎません。

 

 

■1962年、1968年の映像を見て

ではここで、1962年の時期に戻り、今とは少し違ったブラックプールの様子をお見せしたいと思います。見ていただきましょう。ダンスは素晴らしいですが、ダンスが変わってきたことがご覧になれます。少し準備に手間取っているようです。かなり手間取っていますが、もうすぐです。オーケーです。

誰が踊っていますかね? 後ろにいるのは貴方では、ジョン?

ありがとうございます。次のDVDを準備するのにもう少しお待ちください。次は、ロイヤル・アルバート・ホール、1968年の模様です。このワールド選手権の決勝選手は誰でしょうね、ジョン? ビル&ボビー、ピーター&ブレンダ、

 

John Kimmins: ラディとマッジ・トラウツ(Rudy and Madge Trouts)? これはジョーとナンシー・ジェンキンズ(Joe and Nancy Jenkins)かも知れません。あなたは知っているのでは? ジョーが世界ファイナルに出場するには早すぎると思ったのですが、でも確かにジョーとナンシーに見えます。

 

Greg Smith: 日本のカップルも。

John Kimmins: 篠田組では? オバルティン(Ovaltine)のスポンサー。

1968年の模様でした。私が初めてビル&ボビーを見たのは1967年、オーストラリアのメルボルンでした。私はまだ男の子でした。ジュニアで出ていたのですが、このカップルを見て驚いたは二人の存在感がフロアを埋め尽くしているのです。踊りの後で、サインを貰わなきゃと彼に近づくにつれ、彼が小さくなっていったのを覚えています。彼のところに行くと、なんと、私の方が大きかったのです。驚きました。フロアの上で巨人のように見えたのは、彼らの存在感がそうさせていたのです。

 ゲストの皆様には、ビル&ボビーの踊りを初めて観た時、あるいは、二人の最初の思い出をお尋ねしたいと思います。まずアンドリューの印象を聞いてみましょう。

 

 

■初めてビル&ボビーの踊りを観たとき

Andrew Sinkinson:  とても緊張しています。というのも、ビル&ボビーのような偉大な人物について語るのに、自分は適切ではないのでは、と思っています。皆さんの中には、私より、もっと適切な人が沢山いると思います。

私が初めてビル&ボビーを観たのは、おそらく1973年。アルバート・ラッジ(Albert Rudge?)のジュービナイル競技会に招待された時だったと思います。確かダービィ・アセンブリー・ルーム(Derby Assembly Rooms)で行われ、その夜のハイライトはビル&ボビーによるテンダンスのデモンストレーションでした。良くはおぼえていませんが、女性の微笑がとても素敵だったことと、男性のたぐいまれなショーマンシップが印象に残っています。

それから ——— デモンストレーションが終わり、フロアから去って行くときに、彼が不機嫌だったのを覚えています。

当時私は9歳か10歳。そして一番のライバルの一人はゴードン・カスバートソン(Gordon Cuthbertson)で、彼はビル&ボビーに習っていましたから、二人はいつもフロアの横でゴードンを応援していました。私が18歳の頃にパートナーと彼ら(ビル&ボビー)のレッスンを受けはじめました。そして、ブラックプールのジュニア、それからアダルトの試合に参加していく間、ビル&ボビーはジャッジをされ、それから彼はチェアマンになられました。当時は、話しかけることさえ出来ないと思っていましたので、ましてや友人になれるとは考えもしないことでした。

 

John Kimmins: 有難う、アンドリュー。オリバー、ビル&ボビーの踊りを始めて見たときの様子を少し話して頂きましょう。

 

Oliver Wessel : 喜んで。私は二人のデモンストレーションや競技会を生で見たことはないのです。私が生まれた小さな街で彼らの講習会が行われ、二人が一緒に教えてくれたフォックストロットの講習会に参加しました。彼らが、どこから来るのか分からない不思議なパワーで滑らかに踊っていたのをはっきり覚えています。まるでローラースケートをしているようでした。

数週間前、彼らのビディオ・クリップを見つけましたが、やはり同じに見えました。ボールルーム・ダンスはこうあるべきとの思いが常にありましたが、その思いは変わりません。これが、一番強い印象です。

 

John Kimmins: 有難うございます。今度は、マーカスとカレンに。

 

Marcus Hilton: 皆さんこんばんわ。私が初めてビル&ボビーを見たのは8歳の時、ロッチデール(Rochdale)のメダルスクールで、でした。何も分からずに見に行ったのがこのプロのカップルのショーでした。私が思い出せるのは彼の禿頭だけでした。彼は偉大に見えましたが、私には禿げた頭と大きなスカートが鮮明に記憶に残っています。ロッチデールには禿げ頭で燕尾を着ている人も、大きなスカートで踊っている女性も多くはいませんでした。

でも、5年くらい後に、私はレッスンを受けに行きました。そしてグレッグがいったように、私はビルの背がとても低いことに驚きを隠せませんでした。彼はジャイアントのようでした。8歳の私はそれほど高くはありませんでしたが、ビルはただ立っている所からどんどん大きくなって行くのです。それは彼の教え方のひとつで、どんどん大きくなるのです。これだけが記憶にあります。偉大なカリスマ性のカップル、エレガントな女性、そして頭の薄い男性はどんどん大きくなり、ジャックと豆の木のようでした。

 

Karen Hilton: 私もまたビル&ボビーが生で踊っているのを見るチャンスがありませんでした。もちろんテープなどは沢山見ていますが。私がミセス・アービンに初めてお会いしたのは16歳の時でした。ラテン教師のサミー・ストップフォード(Sammy Stopford)氏に連れられていった時で、ドニーとゲイナーと一緒にスターライト・スタジオの中に歩いて行きました。

16歳の私は何でも知っていました。するとボビーがあなたは踊れると思っているのと聞いてくるのです。もちろんよ、と答えると、スカートの幽霊ではダメよ、と言われました。

 

(注)今考えると、この訳は逆で、「(それでもあなたは)スカートをはいた幽霊のようには踊れないでしょ」の意味かと思います。「ビル&ボビー・アービンのダンス・テクニック」(白夜書房/神元誠・久子翻訳)に、世界選手権で優勝したビル&ボビーを見たヘンリー・ジェイクス氏が、「ビルがスカートをはいた幽霊を見つけたのは間違いない」との話しが出ているからです。2018年9月 神元)

 

そんな訳で最初のレッスンはひどく怖いものでしたが、決して泣くまいと心に決めて頑張りました。レッスンの後で、私達といっしょに階段をおりてきて「またいらっしゃい」と声をかけられ、私は階段を下りながらずっと泣いていました。スターライトの階段は長いのです。16才の時の大きな、大きな思い出です。

 

John Kimmins: 有難う、カレン。素敵なお話でした!

Greg Smith: さて次は、もちろん・・・・あなたでしたね。

 

John Kimmins: いいですよ。さて私がビル&ボビーを始めて観たのは1967年メルボルン。私はグレッグより少し年上ですが競技会には出ておらず、メルボルンから帰ってキャロルと踊り始めるところでした。サンディ&コニー・ロビンソン(Sandy and Connie Robinson)、ボブ&リー・スティール(Bob and Lee Steel)と一緒に前列に席取りました。初日の夜はプロ・ラテンでしたが、ビル&ボビーはルーディとマッジ(Rudy and Madge (?))に負け、彼らにとっては最悪の夜でした。あの時はルンバが最初の踊りでしたが,ボビーは踊っている途中にヒールがスカートに引っかかってしまいました。

バンドはパソドブレをチェロから(?)演奏し始めるし、夜が更けるにつれビルはますますピリピリしていました。ルーディとマッジには明らかに最高の夜でした。彼らはサンバで低くなったり高くなったりしながらくるくる回り、彼女のパープルと黒のドレスが素晴らしかったです。

 

Greg Smith:  何番でしたか?

John Kimmins: ゼッケン番号は思い出せませんが、ビル&ボビーはたぶんあの競技会で優勝しなかったでしょう。次の夜はボールルームの競技会でした。皆さんは知る由もないでしょうが、彼がヴィニーズ・ワルツで私の前を通り過ぎて行った時のことをよく覚えています。彼がルーディとマッジを軽々抜き去ったとき、私は「なんて傲慢な男なのだろう」と思ったのです。彼はルーディにこう言ったのです。「動き方を覚えろよ」と。その後、彼がルーディのコーチをしていると知ったので、それ程ひどい話じゃなかったと思います。これが最初の印象です。次の夜、スタジオで行なわれたレクチャーで、誰かがビルにシェイプについて尋ねると、「君たちオーストラリア人はシェイプについて何も理解していないのに、何を話せるかね」と。

最初の印象はこんなでしたが、彼の言葉、ボールルームやラテン競技会での彼の姿はある意味、私にとって非常に大きな出来事であり、忘れられない強烈な印象を受けましたの。それで素晴らしいダンサーになりたいと、と強く思うようになりました。

 

 

■ビル&ボビーとアーサー・マレイ

Greg Smith: ビル&ボビーはここにいられる皆さんの心にも焼き付いていることと思います。お二人は世界中を旅なさいましたが、ここでも驚くべき話があります。私がアメリカにいた時、彼らと同じ日に戻ってきたことがあります。何かの件で電話しなくてはならなかったのですが、てっきり休養していると思いきやスタジオで教えていたのです。実にハードワーカーで、素晴らしい親善大使であり多くの国を訪れました。中でもアメリカではたくさん働いて、そこのダンススクールのチェーンを助けました。アーサー・マレイの教室だと思います。この件に関して何かありませんか、ジョン?

 

John Kimmins:  ええ、その話はよく知っているのでお話できると思います。当時,私はまだアメリカに住んでいませんでしたが。以来注目していました。ビル&ボビーは1963年からアメリカに行き始め、1976年までは年2回、6週間程の旅でアメリカ中の多くのアーサー・マレイ・スタジオ(Arthur Murray studios)を回ったのです。ビルが始めてアメリカに来た時の話です。インターナショナル・スタイルのラテンを踊らなければなりませんでしたが、そこには素晴らしいリズム・ダンサー達がいたのでビルはいつもこのように謝るのです。「皆さんは私よりずっとうまいですが、私の踊りにお金を払ってくれているので、私がショーをさせてもらいます」と。

ビル&ボビーにとりアーサー・マレイ協会は大きな魅力で、二人はインターナショナル・スタイルをアメリカに導入するのに大いに貢献しました。その頃、アメリカではまだインターナショナル・スタイルは知られておらず、ビル&ボビーはアメリカ合衆国におけるインターナショナル・スタイル・ダンシングの真のパイオニアだったのです。協会と彼らとの関係を誇りに思っています。

私が一年間アメリカのアーサー・マレイ・スタジオに行く予定を話すと、ボビーは、「シカゴ、コロンバス、クリーブランドのいずれかにすること」と言うのです。選択の余地などありません。「なら、シカゴにします。一番大きいですから」と答えたものです。本当の話です。当然、彼らとの楽しい再会の思い出がたくさんあります。アメリカ選手権や、他の競技会など訪米してきた時の。この協会にとり、アービン夫妻とのつながりは素晴らしいことでしたし、それを大変誇りに思っています。本当にそうです。

 

Greg Smith:  因みに、ご存じない方々のために申し上げますと、ジョンはアーサー・マレイ協会の会長を務めています。彼らがずい分コンタクトのあったのは日本、そしてマーカスたちですね。マーカスとカレンは日本でたくさん仕事し、たくさんの知人をお持ちですから、たぶんお話されたいのでは?日本でのビル&ボビーはどうでしたか?

 

 

■ビル&ボビーと日本

Karen Hilton:  ビル&ボビーが日本でおこなったすべてのことが尊敬をもって受け入れられました。皇室晩餐会のこともそうですが、すべてが完璧だったと思います。しかし、日本人のカップルに尋ねたとすると、ビル&ボビーは両親みたいな存在で、少し違った受け入れられ方だったようです。たぶん私が考えうる最高の賞賛は、日本の人達は小さな犬や猫を飼っている方が沢山いるのですが、その犬や猫の名前が大体ビルあるいはボビーで、感謝や歓びの気持ちが現れていると思います。日本の人たちから山程の素晴らしい贈り物が贈られ、12月にはいつでもお二人のためのパーティが開かれ、そこで日本人ダンサーたちとお互いに愛と尊敬を交し合っていました。

 

Marcus Hilton:  今日も観客席の中に沢山の日本人がおいでのようですが、日本の人たちは、ビル&ボビーのように誠意をもって接すると、単にダンスの偉大なチャンピオンとしてではなく、それ以上の尊敬をこめて接してくれるようになります。ヒロ&キョウコ・アマノにビル&ボビーの典型的なことは何かと尋ねたら、キョウコが「今夜は最高!」と、ビルがいつでも言っていたことを話してくれました。ビルらしいです。その夜を、その日を精一杯生きる。それがビル。まさに、あなたたちが見たとおりの人でした。

ボビーについても、日本についてちょうど良い、短くて面白い話があります。長いフライトを終えて、日本に到着し、13時間、実際にはアンカレッジ経由で19時間の旅でしたが、そこで北極熊に挨拶して朝の9時にホテルに着きました。ご存知のように、そうした長旅の後では、時差ボケを解消のためには起きていなければならないのですが、二人は寝てしまったのです。

ボビーはビックリして飛び起き、「ビル、起きて。用意するのよ。教えることになっているのよ。もう9時よ」と。急いで着替えて、お化粧し、これはボビーだけですが、身だしなみを整え、スーツを着、ドレスを着、部屋の外に出てエレベーターで下へと。2階でエレベーターが停まり、イギリス人の男性が乗ってきて、「お洒落して、これからどちらまで?」と話しかけてきたので、仕事にと応えると、変な顔をしたのです。

エレベーターが開き外に出ると、ロビーは空っぽ。「どうしたんだ、外は真っ暗だ」。理解できません。それもそのはず、夜の9時だったのです。12時間早く起きて、着替えて、出かける用意をしてしまったのでした。これは失敗例の一つですが。

 

Greg Smith: ボビーだったかビルだったか、そんな事を話していたことがありますね。ありえますよ、実際。さて皆様、私達は彼らが素晴らしい親善大使だと申しましたが、彼らは世界中でデモを通して彼らの素晴らしいダンスを披露していましたが、ここに、お見せしたい彼らのデモの映像があります。一緒に観てみましょう。

 

 

■ビル&ボビーとドイツ

John Kimmins:  これはドイツで撮ったもので、もちろん彼らは何度もドイツに行っていました。ドイツ語を話しました。

Greg Smith:  オーケー、皆さん、これはワルツでしたが、すぐに用意できるのなら、フォックストロットもお見せできると思います。これはもちろんドイツでしたね。ドイツのどこだったか知っていますか?オリバー?

 

Oliver Wessel : スタットガルト(Stuttgart)で1969年、INTACOインターナショナル・ダンス競技会です。

Greg Smith:  もちろん演奏はユーゴ・ストラッサー(Hugo Strasse)ですね。ちょっとトラぶってますね。そう、4番に戻して。ダニエル、4番です。ここから見えます。それはワルツ。違いますね。早送りして、この後にフォックストロットがあります。それはクイックステップ。皆さんからは見えませんが、ここからは見られるのです。用意が出来たようです。

 

John Kimmins:  素晴らしいですね。きっと皆様にもたくさんの思い出が蘇ってきたことと思います。ご存じのようにビル&ボビーは世界各地でおこなったレクチャーでも名声が高い方達ですが、その技術的な専門的知識もそうですが、明快な話し方、的確な情報などでも知られています。ここでちょっとしたレクチャーの様子をご覧いただきましょう。

 

Greg Smith:  やはり、準備に少し時間がかかるようですね。お見せしたい最初のレクチャーは私がとてもよく覚えているものです。ブラックプールで行なわれたボビーともう一人、有名な女性とのダンスで、私はとても感銘を受けました。皆様もまた楽しんでいただけたらと思います。さあ始めます。先ほどの女性はジャネット(Janet Gleave)ですね。

 

John Kimmins:  どうでしたか?美しいダンスにとても感動した、あの日のことを思い出します。本当にすばらしい踊りだとおもいませんか?

Greg Smith:  他に誰か? マーカスはいましたか?

Marcus Hilton:  はい。

John Kimmins: アンディ(Andy)は? (←シンキンソンのこと)

 

Andrew Sinkinson:  これは2年目のものですよね。初めの年には自然な感じでおこないましたが、これは振り付けられたものです。最初の年のは、実に素晴らしかったと思います。

Greg Smith:  今のは、ボビーのレクチャーでしたが、ビルもまた素晴らしいレクチャーをします。そして彼はその独特のレクチャーでもよく知られています。レクチャーで色んな物を使ってできることをみせてくれました。これも、確かドイツだったと思いますが、ビルはこの小さな町でとても慕われていました。オリバーにこの町についてもう少し話をしてもらいましょう。

 

Oliver Wessel : ドイツの深い森に囲まれたとても小さな町です。彼らはそこで毎年2週間のセミナーを行いました。ビル&ボビーは21年間続けました。名誉市民の二人が、馬車でやってくるのが見えますよ。毎年彼らはそうして街に入ってきます。ボビーはゴール・キーパーもやりました。毎年開かれる男女対抗のフットボール大会でのことです。彼女は私の知る限りでは、最高のゴール・キーパーでした。誰も彼女めがけてシュートしようとはしなかったのです。彼女がいないようです。スカートの幽霊でしたね。

 

Greg Smith:  カップとソーサーを使って…マーカスもやりたいですか?

それから、最後のレクチャーで皆さんにお見せしたいのは、これもまた有名なレクチャーです。ブラックプールでボビーがおこなったもので、このときは一人の生徒とではなく、大勢の女性たちと行いました。カレンもいましたよね。

 

 

■ビル&ボビーの思い出

Karen Hilton:  あの時のことで私が思い起こすのは、ボビーがこのレクチャーの特別な雰囲気を創りだそうととても神経質になっていたということです。彼女が選んだ生徒たちは偶然、みんな黒い髪の女性でした。私の事をいえば、いつも黒髪でしたし、キョウコ・アマノもそうでしたし。アデール・プレストン(Adele Preston)は良く赤毛にしていましたが、その時は黒髪で、アマンダ・ドックマン(Amanda Dokman)もこのときは黒い髪でしたが、この二週間だけだったようです。カテリーナ・アルゼントン(Katarina Arzenton)も黒髪でした。偶然とはいえ、あたかもこのレクチャーに合わせたかのようでした。リハーサルはとても楽しかったです。ボビーは私達をうまくコントロールしつつ、1箇所では間違ってばかりいました。

 

Greg Smith:  会場の皆様も、これしたレクチャーを見て刺激を受けたのではないでしょうか。素晴らしいものでした。マーカスとカレンもこのとき手伝っていましたね。オリバー、アンドリュー — も手伝ったことが? 1度だけ? その話を少ししてください。

 

Andrew Sinkinson:  アメリカでのことでした。パームビーチで、随分前のことですが、私はいつもボビーはレクチャーにとても緊張する人だと感じていました。常に人を喜ばせたい、自分も素晴らしくありたいと思っていたからでしたが、イベントの前日に、ディビッド・グリフィン(David Griffin)が亡くなり、動揺と不安を隠せませんでした。それでも彼女がフロアに出ると、パートナーと私はもちろんお手伝いしましたが、観客は歓喜で出迎え、彼女の表情は和らぎました。そしてレクチャーはとてもうまく進行しました。

このときのレクチャーは撮影され、今日もまだ私がアメリカに行くと、人々の間で話題に上ります。ですから、レクチャーではいつも神経質になってはいましたが、素晴らしい講師だったと感じていました。いつもとても立派にされていました。

 

Greg Smith: 開始前はいつも落ち着かない様子でしたね。「オーディエンス・ウイズ」でも、始まる前は心配そうでしたが、一旦始まると素晴らしかったです。

Andrew Sinkinson:  そうですね。どきどきするのは、しようとしていることにウキウキしているからですよ。

Greg Smith:  まったくそのとおり。他に、二人にまつわる他の話をご存じですか?

 

 

■フェザー・ステップの思い出

Oliver Wessel:  面白い話? そうですね、山ほどありますが、ビル&ボビーの面白い話を一つずつ紹介しましょう。ビルの話はとても短いです。

著名なお金持ちのご婦人がビルのレッスンを受けに定期的に通い続けていました。私はスタジオに居合わせて目のやり場に困りました。彼女はこういったのです、「ビル、正直におっしゃってほしいのですが、頭の使い方に困っているのですが、頭の位置がひどくて、どうしたらいいでしょうか?」

ビルは即座に、「切断しかない」。彼に明確な答えを求めるとこのような結果になります。

ボビーの話は、彼女のレッスンを受けた人なら同じような経験をしていると思いますが、私が初めて世界タイトルを獲得できた1週間前、最後の調整に3日間、私達のスタジオでボビーに教わりました。

初日の4レッスンは、フェザー・ステップ、リバース・ターン、スリー・ステップ。2日目も4レッスン。フェザー・ステップ、リバース・ターン、スリー・ステップ。そこで3レッスン目の後で、

「ボビー、少し心配になってきました。来週は5種目踊り、フォックストロットだけでも4小節以上踊ります」

「なんですって、あなた」 — まずい出だしです。

「主人はもう高齢ですが、あなたよりましなフェザー・フィニッシュをしますわ。世界チャンピオンを取りたいのでしょう。さあ,もう一度」。

 

翌日、自分は賢いと思いました。自分からレッスンを始めたのです。自分から「ボビー、今朝はヴェニーズ・ワルツから始めます」と言ったところ、「それを教えるつもりはありません」。

私が、「まだお金があるのでお支払いはします。私はヴェニーズ・ワルツを習いたいのです」。

彼女はタバコを置いてレコードをかけ、私達がナチュラル・ターンを3回踊った所で、こう言ったのです。「素晴らしい! じゃあ、フェザー・ステップを見せて」と。

 

Greg Smith:  マーカスとカレン。何か面白い話はありませんか?

 

 

■タンゴの秘訣と銃の話

Karen Hilton:  そうね。思い出の中から特別なものといいますと、競技生活を終える頃、さらなるインスピレーションを得るため、ビルは私に競技会ごとに心に留めておく特別な言葉を渡しに下さるとおっしゃいました。そしてこの言葉が私達を導いてくれたと言えます。

最初のは素敵な言葉で、ものすごく美しいことを考えなければなりませんでした。

「わあ、これは上手く行くわ。本当に素敵!」

 

「でもビル、これはタンゴでは上手くいかないかもと、言うと、「こんな言葉を使っちゃいけないが」といって  ―  ごめんなさいね、そのまま使うと、「ろくでなし野郎(bastards)の事を考えな」と、言ったのです。「では誰の事を考えればいいの」と聞くと、「誰だって構わない。他の競技選手でもジャッジでも、観客でも。しかし、これが君たちのタンゴの言葉だ」と、仰いました。

彼の教え方はこんなふうでした。実際に何度か使わせて頂きました。低迷しているときなどに。すると、元気を取り戻し、また頑張る事ができました。

 

それからボビーについての話ですが、マーカスと二人で彼女から受けた影響について考えていたとき、お二人をとてもよく存じ上げていると改めて思いました。多分、最後の頃は先生としてよりはむしろ隣人として、友人として彼らと接していました。

彼らの影響について考えると、そういえば、彼らの金庫の中にすごいリボルバーを見つけた事があります。真珠と銀でできたグリップであきらかに趣味の人のものと思われました。ショックでした。ガンがあるなんて。家の中に弾薬があるのかも分からず、どうしようかと思いました。通報しなくては、と。それから書類に目を通すと、それがボビー・アービン婦人の所有物と書いてありました。ボビー・サーン・アービン(Bobbie Cern-Irvine)。銃の免許を持っていたのは、南アフリカで家の中に入ってきた蛇を打つためでした。それは私達がほとんど忘れていた彼らの生活の一面でした。おそらくダンス界でも数匹撃ち殺していたのではないかと思います。

 

Marcus Hilton:  その銃に関してですが、ビルの葬儀の前日、私はジェシィ・リデルと話しました。ジャックとジェシィ・リデル(Jack and Jessie Liddell)はビル&ボビーの親友で、葬儀に参列できないため、彼らに電話で様子をすべて伝えたのです。話が銃のことに及んだ時、彼女は少しニタリとした感じがしたので、「どうしたの?」、と尋ねると「その銃については別の話があるわ」と言ったので、「なに、なに」と、せがんだものです。

ビル&ボビーはある種の話し合いをしていました。南アフリカのキッチンでのことです。口論が激しくなり、ビルは癇癪起こしてキッチンを飛び出したと思うとボビーの耳に銃声が聞こえてきました。「なんということでしょう。自殺してしまったんだわ」。

実際には、彼が取り出した銃を投げつけたときに暴発してしまったようです。弾はキッチンの隣の部屋の天井を射抜いたということです。

信じられない事ですが,しかし、私達は銃を弁護士の所まで届けなければなりませんでしたが、その道中のことを想像してみて下さい。途中、警察に止められ尋問されたなら、車の中に銃があるのですから。どう思われるでしょう。カレンを殺そうとしているとでも — いや、まだですが。

 

もうひとつ。私達が競技を引退した時、ビル&ボビーに特別な感謝を示そうとスコットランドのグラニーグル・ホテル(Gleneagles Hotel)にお招きしました。皆さんご存じのようにビルは熱烈なゴルファーでしたから。私達はそこを何度も訪れていました。ボビーは癌にかかっていて、ベストの健康状態ではなく、ある種のマッサージを受けつつ、カレンやホテルので特別な人達に面倒を見てもらっていました。

私はビルとゴルフをしていました。初日の早朝はお天気に恵まれ、私達と一緒にコースを回るキャディがやってきました。キャディの紹介を受け、ビルが「ビル・アービングです」と自己紹介し、「君の名は?」と尋ねると、なんだかと言う名前と共に「私は目が見えません」と言ったたのです。

「目がみえなくてキャディ?」

「ええ。目は見えませんが、あなたの事は存じています。キルシス(Killsythe)のご出身ですね。貴方はキルシスの肉屋さんで働いていたでしょ。よく貴方から肉を買いましたよ」。

その日ビルはベストのゴルフが出来ました。上機嫌でした。始めどうなる事やらと思ったのが、全く逆の展開となったのです。

 

Greg Smith:  それにしても、銃の話は初耳でしたね。

 

John Kimmins:  私も色々知っていますが、ちょっとした話があります。私はよくボビーと夜更かししてダンスについて話をしていましたから。ビルが寝た後でも。そして彼女が言った台詞で思い出すのは、ある夜、ジャネットとのレクチャーについて尋ねたときの事です。私が「どうして女性は男性を踊るのもうまいのかな?」というと、彼女は「バカじゃない。まだ分からないの? 私達女性は男性みたくプッシュするよう教わらないからよ」と。面白いでしょ? 勉強になりました。もう遅すぎますが。

 

Greg Smith:  アンドリューは何かありませんか?

 

Andrew Sinkinson:  ビル&ボビーが亡くなったとき私は泣きました。でも、あなたから出演の依頼を受けた日は一日中、二人は面白老い人たちだったので、色々とおかしな事を思い出して、笑いっぱなしでした。ビル&ボビーは私の事を大好きだったと思いたいのですが、でも時々ひどく扱いにくい生徒だったに違いありません。

そうですね。ちょっとした話があります。小さな出来事を覚えています。インペリアル・ボールルームで、ブラックプール前の事です。ブラックプールに向けて準備中でした。家には3、4人、お客が泊まっていて、その客が金曜日の夜に夕食に招待してくれたのですが、私は「練習があるから」とお断りしました。「アッセンブリーで練習があるから君たちだけで行ってくれ。じゃあね」と。

彼らが帰宅し「練習はどうだった」と、尋ねるので、「ひどいものだった。パートナーと大喧嘩だよ。明日は踊らないぞ」と言うと、皆は「そうかい」と。私は「だから早く起きなくていい」 — 自分でも「仕方ない」と思っていました。

 

最初に出るラウンドは12時頃だったと思います。9時に、電話が鳴り、パートナーからでした。

電話口で、「うん。うん。— 全員起きて!コンペに出るから」と、言いました。

次の瞬間、また電話が鳴り、今度は、「ベットに戻って。やめだ」。

また電話が鳴り、「起きて。やっぱり出る」

こんな風にすったもんだした後で、「もういい。絶対に出ないぞ!」と、言い切りました。

「だから寝ていい。あとから昼飯かなにかを食いに行こう」 — と。

5分後、電話が鳴り、

「でますよ。友達が見に来ていますから、行きます。ええ、勿論」

「今度はほんとだ。起きて、起きて!絶対出るから」と言ったので、友人が「今のは誰?」と聞いてきました。「冗談じゃないよ、ボビー・アービンだよ。急いでくれ!」

 

John Kimmins:  それでは、私達もまたいくつか大変だった話をお聞かせしましょう。面白いですよ。みなさんもビル&ボビーから始めてレッスンを受けた時のことを覚えていると思いますが、グレッグの思い出を聞いてみましょう。

 

 

■私に触らないで!

Greg Smith: ええ、最初のビルからのレッスンは、興味深いものでした。とても教わることがありましたが怖かったです。何回かレッスンを受けた後で、「今度はボビーのレッスンを受けなさい」と、いわれ、ますます怖じ気づきました。そりゃ怖いですよ。多くの人達がご存じのようにボビーとホールドしようとすると、彼女は「さわらないで」と言うので、みんな怖がっていました。私も同じ事を言われたのですから。

数年後、ジョンと私がスタジオにると、オーストラリアの男の子が初めてのレッスンを受けていました。私達はレッスンを受けることになっており、ずっと待っていたのですが、その時、少年がナチュラル・ターンで始めました。すると、突然ボビーが「私に触らない!」と言ったのです。次に私達の方を見て、「ジョン、グレッグ、もう帰ってもいいわよ。これを待っていたのでしょ」 と。

マーカスとカレンはどうでしたか?初めてのレッスンの時、怖かったですか?

 

Karen Hilton:  ええ、すでに話したように怖かったです。ボビーのレッスンで思い出されるのは、ある男の子がセイム・フット・ランジやナチュラル・ターンが余りきれいにできなくて、そして彼女のスペースを侵してしまった時、彼女のお決まりの台詞は「おしまいね。私と結婚しなくちゃならないわ」でした。ずいぶん結婚した事でしょう。ボビーは男の子たちが大好きで、いつも男の子達に囲まれていました。

アンドリューが一番の彼女のお気に入りで、ビルはオリバーを可愛がっていました。ボビーは彼女を慕う男性たちに取り巻かれ、女の子でその中に入れたのは、数人。それも、騒がしいのはダメなのです。

マーカスと私は忙しすぎたかどうかは別として、ダンス業界以外の多くの友人がおり、よくロンドンに出ては、素敵なレストランで一緒に食事をしていましたが、そこにはビル&ボビーもよく顔をだしていました。ビルの場合は食べるとじきに帰ってしまいましたが。

でもボビーは男の子達を魅了し、彼らはうっとりと彼女を見つめていたのでした。実際、今朝私達が出掛ける前に警備員がやってきたのですが、その警備員は、ボビーが部屋を流れるように横切っていたことを覚えていると語っていました。どういう事かというと、私たちの家でも彼女はガウンを羽織り、その姿で警報装置(きっと。目覚ましのことでしたね。2018・09神元)を止めようとしていたのです。こんな風に周囲を和ませていたのです。

 

 

■ショーに失敗して…

Marcus Hilton:  そうですね。ビルはと言えば、とても強い人。闘争心に満ち、いつでも足やCBMなどに気をつけていて、前に話したように、立っていると大きくなっていくのです。振り付けを踊ろうとするのではなく、振り付けに貴方を踊らせなさい、と言っていました。

それから何度もウォルター・レアード(Walter Laird)とのショーの話をしてくれました。ブラックプールのエンプレス・ボールルームで、椅子は一脚もないので部屋のサイズは想像できますよね。そこでウォルター・レアードの最高のショーを見て、ビルもウォリーヤロレインより良いショーをしたいと思いましたが残念ながら最悪のものになってしまったものだから、激論となりました。

 

その当時は、当然M6やM1の高速道路はまだ無く、ローカル道を走りながらずうっと口論して家に戻り、そのままスタジオに直行したというのです。二人ともヘビー・スモーカーでしたね。ビルが「さあ、これから出来るだけ大きく動いてみる。プロムナード・ポジションからシャッセ、そしてナチュラル・ターンだ」と言いながらライターを置いて、シャッセとナチュラル・ターンをできるだけ大きく踊ろうとしました。

つぎに彼は目を閉じてボディを動かしてみると、先ほどより遠くに進めたのです。彼はこの話を何度も繰り返したものです。わずか3つのフィガーの事を私は競技生活を終えるまで忘れた事はありません。まだそれを教えるのに使っています。

 

ボビーの事ではこんな事がありました。彼女は私と踊っていて私の頭が左や後ろに行き過ぎると、いつでも「あなた,寂しいの、寂しいのね」、と言うのです。「それはどういう意味ですか?あなたといるじゃありませんか」と言っても「でも、寂しいの?」と聞いてくるのです。まるで意味が分かりませんでした。きっと同じことをアンドリューにも言っていたと思いますよ — 「あなた、寂しいの?」って。「寂しかったの?」 — まあ、いいでしょう。

彼女はいつでも僕の右肩甲骨の下に手を置いていたので、彼女の質問というのは、僕の左サイドを前にもって来て欲しかったのかも知れないです。

ボビーはいつでも私の右サイドも右腕もかなりいいポスチャーをしていると言って下さっていたので、もしかすると彼女は僕の左サイドのことを言っていたのかも知れなませんね。私の背中からボビーへとつながる。寂しくはありませんでしたし右サイドが良かったのです。

 

 

■ジョン・キミンズの思い出

John Kimmins:  ありがとう、マーカス。では私はアウグストとカテリーナ(Augusto and Katarina)がボビーから初めてレッスンを受けたときの話をしましょう。彼らはそれほど上手に英語を話さなかったので、これはおもしろい話だと思いますよ。彼らはスロー・フォックストロットを踊ったのですが、ボビーはどうしたら二人に彼女の考えを思案したあげく、鼻をつまみ、トイレのチェーンを引っ張るまねをしました。それでメッセージが伝わったのです。カテリーナも良く覚えている事でしょう。

私のビルの最初のレッスンはもっと普通でした。彼は背中などについて話しましたが、他の事はその前にあまり聞いた事がありませんでした。でもボビーの初めてのレッスンを鮮明に覚えています。私は緊張していました。私が出たいくつかの競技会で彼女はジャッジをしていたのですが、キャロルと私にはとても良かったです。人気あったのかも。

 

始めのレッスンではとても緊張しました。ご存知のように私には肩に問題を抱えていて、両肩が耳まで上がっていましたので、彼女は私に「どうしたの? 貴方。良い成績をつけてきた人のようには思えないわ」と言ったのです。それで、うっかり「アービン夫人、くそ怯えているのです」と声に出てしまったのですが、彼女は「OK、リラックスし、もう一度やりましょう」と言って下さり、今度は少しましでした。これが素晴らしい関係の始まりでした。もうひとつ思い出しました。

ホバー・クロスからテレマーク、セイム・フット・ランジをやろうとしたときの事です。「ジョン、これで踊れると思う?」と聞くので、「もちろん」と答えると、「私の事は構わないでくれればうまくいくわね」と言われました。それもまた私にとってとてもよいレッスンでした。これが印象深い思い出です。こう言われたこともあります。「左腕は静かに低く保ちなさい。それで優勝できるでしょう」と。その結果? 彼女は正解でした。その時は上手くいきました。

アンドリューにも聞いてみましょう。

 

 

■シンキンソンの失敗談

Andrew Sinkinson:  ボビーのところに行く前は男の先生達に習っていました。18歳か19歳になろうとする頃、女性の先生が必要になっており、ニーナ・ハント(Nina Hunt)がボビー・アービンに紹介してくれたのです。でも習い始めてから暫くは全く雲をつかむようなものでした。思い出せるのはただ一つ、自分たちの総てが違っていて、話すことさえできませんでした。声も出なかったです。レッスンの終わりで何か質問はと、問われても、話せないのです。

それからのレッスンでも、「質問は?」と聞かれても、その後も、同じ。「ありません」。ボビーと話せるようになるまで、ずい分時間がかかりました。それから、ボビーは私達にビルから教わるようアレンジしてくれ、フットワーク、タイミング、ダイレクションなど厳しく教わりました。

 

失敗談を思い出しました。私達がアマチュアのチャンピオンのとき、UK戦BBCで放映されることになりました。オナー・ダンスだったかイントロダクション・ダンスでフォックストロットを踊ったのですが、リバース・ウエーブでフットワークを間違えてしまいました。そのとき私達はチャンピオンだったと思います。

テレビ放映の翌日のインペリアル協会試験官のミーティングの場で、「シンキンソンのリバース・ウエーブのフットワークを見たか」と誰かが大声で言った時、「誰が奴の先生だ?」と。次にスタジオに行った時、「アンドリュー、こっちへ来い」と言われ、それからの15分間、スタジオ内をずっと、リバース・ウエーブだけをやらされました。もう一回、もう一回と。

 

これも話させてください。私が19歳か20歳の時、ボールルーム・ダンスをしている人は皆あのスタジオに行くのを見て、そこがボールルーム・ダンスではどれほど有名な所か、という事を知りました。当時、ビル&ボビーはまだ踊っていて、私達のレッスンの前に決まって踊って見せてくれたものでした。ハンスとアン(Hans and Anne)もまた、踊っており、ボールルーム・ダンスの素晴らしいイメージを抱いたものです。

さらにお話したいのは、ロンドンの殆どのスタジオでもそうでしょうし、私はキングストンのスタジオでもそうですが、ビル&ボビーは毎日話題に上っています。「ビルならこう言うでしょう。ボビーならこう言うでしょう。彼らならこうした、ああした」と。きっとロンドン中のスタジオがこんな感じだと思いますし、世界中で同じだと思います。

 

最後にもうひとつお話したい事があります。人々はダンスの事やビル&ボビーの事について沢山お話をするでしょうが、私はもちろん彼らは偉大なダンサーと思っていますし、彼らがダンスのためにされたことは素晴らしいと思います。でも、彼らを知らない人のためにお話しますと、お二人は本当に親切で寛大な人たちでした。私の人生で知り合うことのできた ― 彼らと親しい人たちにとって、あそこは自分たちの家のようでした。勝手に入っては台所に押し寄せたり、バーに行ったり。だれも断られたことはありませんでした。彼らは知らない人から見ると、とても冷たく見えたかもしれませんが、私がお会いした中でも、もっとも温かい方達でした。

 

 

■ビルの歌

Greg Smith:  さて、みなさん、私にはビルに関してかなり特別な思い出があります。彼の80歳の誕生日の時のことで、ビルのために歌を歌った青年がいました。今夜その歌を聞いてみたいと思いませんか?

Oliver:  立ちますね。立っても座っても下手は下手ですが、立ってる方がそれっぽく見えるでしょうし。あっち向きですか? 2番目の曲をかけてください。大き過ぎないようにお願いします。大きすぎると台詞が聞こえないし、私の声も。適当なところで。では2曲目を、カンニングしながら。

(sings)

彼は8時になってもお腹がすかず、
教えるのが好だったから、遅れてくることはない。
彼に触られると、ただただ気持ちいい。
だからビル・アービンはチャンピオンなのさ。

スコットランド生まれの、スコットランド男
どのパーティでも皆、喝采。
けも、ちゃんと見てないといなくなっちゃうよ。
だからビル・アービンはチャンピオンなのさ。

ボディを投げ出し、スィングするのが大好なのは、
ビートの取れた音楽で、
胸は平に、それで決まりだ。
飛ぶように動かせてくれても足をつったりさせない。
だからビル・アービンはチャンピオンなのさ。

どんな問題にも解決策を持っている、
見てすぐ分かっちゃう、すごい人。
だからクイーンはMBAを授けたんだろう。
ビル・アービンはすごい人。

私のヒーロー、私の感動
第二の父親。とても愛してる。
私のうぬぼれを取り除きつつ、スローでは股間を触る
ビル・アービンはすごい人。

今日、私達はあなたと奥様を称え、
ああ、なんという人生。
彼のキスが懐かしい。
ダンス界に偉大な足跡を残した、
あなたは、すごい
あなたはすごいチャンピオンでした。

歌でスタンディング・オーベーションをいただくのは、今回だけでしょう。ありがとうございました。

 

 

■対ピーター・エグルトン、初めてのゴルフ

John Kimmins:  オリィーに少しだけ思いだしてもらいたいのですが、ビルの葬儀で述べた彼の美しい讃辞から一部を紹介していただきたいと思います。オリー、すみませんがお願いします。

 

Oliver Wessel:  ええ。実は彼の特徴を上手く捉えているものがいくつかあります。彼は南アフリカにいた時、アイダ・クルガー(Aida Krueger)という女性と組んでおり、一方、ボビーはパートナーのバーノン・バレンタイン(Vernon Balentine)と南アフリカのチャンピオンでした。ビルはゴールドカップという競技会に参加して優勝したので、それをインタビューした新聞社は「南アフリカ・チャンピオンのインタビュー」とする記事をのせました。それを見たバレンタインが不満に思い、ビルに、「君は南アフリカのチャンピオンではないぞ」と電報を打ったところ、ビルは「心配するな。すぐになるから」と即答しました。

実際、色々ありすぎて、いちばん面白いのを選ぶのはとても難しいのですが、今ひとつ見つけました。ビルたちにとり、ピーター・エグルトンとブレンダ・ウィンズレイド(Peter Eggleton and Brenda Winslade)との出会いは、グラスゴーでのスコット選手権でした。テレビリハーサルがありました

ピーターとビルが話をしていた時、ビルはこう言いました。「あなたが今夜優勝するのは分かっていますが、会場には一人、あなたのではなく私のファンがいます。母です」。その夜のファイナルで、スコットランド観衆はビル&ボビーに大声援を送りました。すると、ピーター&ブレンダはフロア真中でビル達に「これが君のお母さん」と言ったのでした。

そうですね、あとはゴルフチャンピオンのビルがいいと思います。私たちは皆、彼のダンスに対する完ぺき主義の事は知っていますよね。特にテクニックに関しては。これは彼の最初で最後のゴルフレッスンのことです。当然、彼はきちんとやろうと緊張しっぱなしでした。レッスンの終わり、ビルについて何の知識もないゴルフの先生が、こういったそうです。「アービンさん、もしゴルフである程度のレベルまでいきたいのなら、スイングがどのようにして起こるかを勉強したらよいですよ。足首と、ひざとヒップがどのように作用しあっているのかを学ぶべきでしょう」。

ええ、彼が次のレッスンを受けなかったことは言うまでもないでしょう。

 

 

■ジャッジを投げ出す

実際彼は…私が思う彼の長所は、彼はいつも真実を話すところです。時々それがちょっときついこともありますが。ダンスニュースの見出しにあった、‘私はテキストを窓から放り投げることはしない‘を覚えています、そして、私はいまだにそうだと思います。これについてはビルも明確に述べています。

実は、ある大きな競技会で、どの競技会かはなんの意味もないので言いませんが、私はボビーと一緒にジャッジをしたことがあります。横並びに立っていると、背後から機嫌の悪い声がしました。「もう行くよ」。ボビーはジャッジを続けながらこうささやきました。「どこへ?始まったばかりよ」。

「音楽がひどすぎる。聞いていられない」。そのまま彼は立ち去ったのです。

えー、まったくこんな感じでした。いつもと違ったところは、自分は立ち去るということを告げたことです。いつもなら、何も言わないでその場から去り、みんながきっと2時間も探し続けることでしょう。

 

その時私が作った賛辞から感じることの一つは、彼の最後の2年間は、一人で寂しかったであろうと、強く思っていることです。究極的には、物事には説明できないこともあるという事を私が信じているからなのでしょうが、ボビーが亡くなるとビルは自分の半分以上を失ったので、この世に留まっていたくなかったのでしょう。それはとりわけ最後の1年を通じての印象で、今は天国で一緒に踊っていることと思っています。そして、私は今でも葬儀で述べたのと同じ考えを持っています。もし天使が天国でダンス競技会を開こうと考えたなら、きっとビル&ボビーのところへ行くでしょう。なぜなら、彼らは全く人種や肌の色、宗教などを気にしないからです。彼らは国籍を問わず誰に対してもオープンで、誰にも温かな人達だったからです。でも天使が気をつけなければいけないことは、足をよく洗っておくことです。

 

Greg Smith:  素敵なお話でしたね。天使の話でもって思い出話を終わりにしたいと思います。

ボビーが亡くなったとき、ブラックプールで。私達はプロの7カップル、そしてアマチュアのトップ6カップルがボビーのためにワルツを踊りました。それはとても感動的なひと時でした。今夜は皆さんにそれをお見せしたい気持ちなのです。映像を出してもらえますか?

 

John Kimmins:  いかがでしたでしょうか、皆さん?これでこの素晴らしい追悼会を終りにしたいと思います。マーカスとカレン、そしてアンディとオリバーが参加してくださったこと、そして、素晴らしいお話に感謝致します。そしてこの素晴らしいカップルがくださった素晴らしい思い出をありがたく思っています。また、私達が教わったことをきちんとやっているか、天国からチェックされていることでしょう。

皆さん、グレッグも私も、素晴らしいUK選手権になることを願っています。そして、もちろんビル&ボビーの影響もこの素晴らしいフェスティバルの間中、見られるでしょう。来年もここのBDFI議会で、あるいは8月から9月にかけてのロサンジェルスでお会いできることを願っています。ありがとうございました。そして全てのカップルに幸運を。皆さま、ありがとうございました。

出典:Dance Wing 52 January, 2010
英語監修:Geoff Gillespie
レクチャー翻訳/アフレコ:神元 誠

(おわり)

◇ ◇ ◇

 

ハッピー・ダンシング!