FL35 初恋は音楽 18. 50歳の誕生日

投稿者: | 2023年6月9日

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目次紹介

“Music Was My First Love”
初恋は音楽

 

18. 50歳の誕生日
The Fiftieth Birthday

 

50歳の誕生日をこれ程大々的に祝うことになるとは、まったくもって知りませんでした。この華々しい数字は人生の中の明確な数字であるはずです。なぜなら。ほとんどの人にとり、多かれ少なかれ、人生の前半を再評価すると言える年齢だからです。私は自分の人生で何をするつもりだったのでしょうか? 何がうまくいき、何がうまくいかなかったのでしょう?どこかで間違った方向に進んだのでしょうか? それは修正できるでしょうか?  私の人生で幸運だった経験は何だったでしょう? また、自分自身の行為、あるは、自分ではどうすることもできない状況によって、何かを奪われてしまったのでしょうか、この50年の人生で。

 

私は2つの選択肢から決めることが出来ませんでした ―― 近しい家族だけで祝うか、ボールルームを借りて大規模で祝うか ―― 。しかし、私には非常に多くの友達のように結びついた人たちがいて、誰も外すことはできないとなると、その選択肢だと、病気による予算の穴が大き過ぎました。数年前なら、それは違っていたでしょう。そのパーティーまでにお金を貯めることができたかもしれませんから。結局、何も準備してこなかったということです。

それは休みの日だったし、家族も一緒だったし、私の心よ、他に何か必要? 

昼食の時、ヴェラが私に言いました。「午後6時10分ジャストよ。シャワーを浴びてアイロンをかけたタキシード姿のあなたを玄関で見たいわ」。結婚している人ならこの意味が分かるでしょうから、そうしなさいね(冗談ですよ!)。すると、家の前に大きなリムジンがやってきました。そう、ラスベガスやロサンゼルスで見るようなやつです!  乗り込むと、子供たちにはソフトドリンク、私たちにはノンアルコールのシャンパンが用意されていました。ご存知のとおり、治療中のアルコールは当然良くありません。医師や薬剤師に聞いてみて下さい。

 

目的地に到着すると、長年の教え子であるアンナ(彼女自身もドイツのラテン・チャンピオンを複数回獲得しています)がドアまで迎えに来てくれました。アンナは単なる私の生徒ではありません。彼女がウクライナからドイツに来て私と一緒に勉強を始めて以来、私は彼女の義理の父親でした。それは今でも変わりません。車のドアからレッドカーペットが続き、アンナ、正確にはアナスタシア(Anastasia)が私をボールルームへと案内してくれました。私の大好きなウード・ユルゲンスの曲”Ich war noch niemals in New York”(私はニューヨークに行ったことがない)を演奏するバンドの前を通り過ぎました。中は真っ暗で、旧友のマティアス・フロンホフ(Matthias Fronhoff)が私を出迎えてくれました。照明が点くと、どこか分かりましたが、何が起きているのか理解しようとしました。そこには約480人が集まり、立ち上がって拍手をして、バースデーソングを歌ってくれました。そこはダンススポーツの最高級の場所でした。私の家族、兄のウルフガングの家族、そして旅行が好きではない私の母もいましたが、背が低いので、彼女が立っているのか座っているのか全く分かりませんでした。私は赤いベルベットと金の装飾が施された本物の玉座に座らされ、私の美しい子供たちは私の個人的なボディーガードの役でした。そして、これまでの私のキャリア上、最も重要な場面の短編映画が映し出されると、そのBGMは特別な人によって細かく調整されていました。その人は、まさにウード・ユルゲンスです。彼が歌う「今日はあなたの日」をバックに、イギリス、デンマークから日本まで、今日参加できなかった世界中の友人からのビデオメッセージが流れました。

世界評議会名誉会長であり、私の恩師でもあるカール・ブロイヤー(Karl Breuer)氏が最初にスピーチをしましたが、それは非常に個人的な心からのものでした。弟のアンドレアスは夫のグラハムと一緒にロサンゼルスから来てくれました。その夜、私の感動の涙は止まることを知りませんでした。サーシャ&ナターシャ・カラベイ夫妻とは私が長年教えてきた間に親友となり、その友情は両親にまで及んでいたのですが、その二人がフロアに入ってきました。

彼らは思い出の旅を始めました。映画 “Somewhere In Time” のサウンドトラックに合わせて踊りました。このナンバーを90年代の初めにエスパン・サルバーグと一緒に踊ったことがあり、どこで踊っても部屋全体が完全に静まり返りました。そして今、その90 年代のオリジナルの振り付を、次世代のダンサーが解釈した踊りで披露したのです。私は魔法にかけられたようでした! どれほどの労力だったでしょう?(私の時、仕上げるのにどれだけ時間がかかったか覚えているのですから)。しかも彼らは、アジアで競技会に出ている最中だったのです。

 

挨拶はさらに続き、1986年の映像が映し出されました。それは、仲間の世界チャンピオンのホルストとアンドレア・ビア(Horst and Andrea Beer)と共にガラ・ナイトのために制作した6分間のショーで、ドイツのテレビで全国放送されました。そのショーでは、同じ音楽を使い、ボールルームとラテンが頻繁に入れ替わりました。私たち二組ともドイツと世界の10ダンスチャンピオンでしたので(もちろん同時期ではありません)、今でもテレビで見ることができるはずです。その夜、私たちは特別栄誉のゴールデン・ダンス・シューを受け取りました。それは、ビア夫妻が前年の1985年に受賞していたものです。大きなスクリーンには1986年のオリジナルが映し出され、フロアでは、それに100%シンクロさせて、ジェスパー・ビルケホイ(Jesper Birkehoj)と”連れ子”のアンナ・クラフチェンコ(Anna Kravchenko)の二人、そして、シモーネ・セガトリ(Simone Segatori)とアネット・スドル(Annette Sudol)組(今これを書いている時点で、世界で最も音楽的なカップルの1組)が踊っていました! 当然、スタンディング・オベーションが続きました。その場にいたビア夫妻と私の元パートナーと一緒に、このショーを一緒に見られて、なんとも嬉しい限りでした!

 

世界チャンピオンのベネデット・フェルギアとクラウディア・コーラー(Benedetto Ferruggia and Claudia Kohler)は、私がかつて企画・振付したヨハン・シュトラウスの「皇帝のワルツ」を踊るために、予定ギリギリで到着しました。次に登場したのは、まったく予期せぬサプライズのカップルでした。なぜなら、ずいぶん前に引退していたからです。彼らは南ドイツで大きなダンススクールを開いていて、その間、子供が出来て親になった人たち、世界チャンピオンのラルフ・ミュラーとその美しい妻アルガ(Ralf & Olga Muller)です。彼らは、1991年に私が彼ら用にビゼーのオペラ「カルメン」の音楽で振り付けた踊りを私のために踊ってくれました。あれが19年前とは信じられません!

 

更なる祝辞がアマチュア会長のフランツ・アラート(Franz Allert)氏、スポーツ・ディレクターのミヒャエル・アイヒェルト(Michael Eichert)氏、地元連盟のジョセフ・フォンスロン(Joseph Vonthron)会長、コーチ連盟(TSTV)のソニー・シェーネベルガー(Sony Schoneberger)会長らから述べられると、各種賞も授与されました。

 

私が部分的に指導したデンマーク出身のカップル、クラウス・コングスダル&ヴィクトリア・フラノバ(Klaus Kongsdal & Viktoria Franova)は私のお気に入りリストの上位にランクインしているのですが、この二人が次の華やかさを演出してくれました。二人は、私が国を越えてデンマーク人カップルにしてきた総てのことに対し、デンマーク連盟の名において私に感謝の意を表しました。とても美しいヴィクトリアは、小さなアダムを出産したばかりで、1年半以上練習していません。しかし、デンマークから来た他のゲストが彼らに、私のために踊るように説得すると、ヴィクトリアは長いイブニングドレスを自由に踊れる長さに巻き上げると(男性陣には、それだけでも来た甲斐ありましたね!)、バーバラ・ストライサンドの音楽に合わせて即興でルンバを踊ってくれました。誰の目にも涙が。

 

別のビデオメッセージが流れました。それは私の大好きなラテンダンサー、アラン・トーンズバーグとそのパートナー、ヴィベケ・トフト(Allan Tornsberg & Vibeke Toft)が1992年に世界タイトルを獲得した時の映像でした。私は、アラン・トーンズバーグが初めて国際大会に出場したとき、主に彼の2つのことに目が行きました。それは、パートナーの魅力を最大限に引き出す配慮をしていたこと(最愛の紳士!)、そして、音楽を可視化していたことです。私が会ったときはまだスターではありませんでしたが、スターになるということは、谷を歩き、暗い時間を生きることを学ぶということであり、その特質はすでに彼の中に現れていました。私は二人がビデオで何を言うか待っていると、その映像が消え、次に照明がつくと、そこに彼がいるではありませんか! アラン・トーンズバーグが、この日のために、現在住んでいるニューヨークから特別に来てくれたのです。彼は私に微笑むと、一人でルンバのステップを踊り始めました。私が彼に目を奪われていると、他のゲスト達から叫び声が上がりました。ヴィベケ・トフトがルンバ・ウォークをしながらフロアに入ってきたのです。今、私は、音楽とダンスでつながった二人の人間が、一つのカップルになるのを体験しました。二人が選んだのは、エルビスのヒット曲「You Were Always On My Mind」のマイケル・ブーブレ(Michael Buble)バージョンでした。

そして、アランはマイクを持つと、私たちが音楽とダンスへの愛と情熱を通じてソウルメイトになったこと、そして彼の心の中にはずっと私の居場所があることを、ゲストの皆さんに説明しました。

 

私にはもう一人のソウルメイトがいてトリオでした。その彼を今紹介することを大変光栄に思っています。イタリア出身、比類なきウィリアム・ピノです。この本では度々彼の名前が出てきましたね。ウィリアムとアレッサンドラのように、並外れた才能を持つ二人がカップルとして出会うのは、50年に1 度くらいのものでしょう。ウィリアムは、彼独特の辛口ユーモアを交えて、私たちの仕事上の関係の歴史を説明し、娘レベッカの名付け親である彼とアレッサンドラが、今では私たちの家族の一員であることを付け加えるのも忘れませんでした。彼らは、キャリアのピーク時の姿をファンに覚えておいてもらうために、引退後は二度とパフォーマンスをしないことにしていましたが、その夜は私のために、その決意を破ってくれました。

私たち3人が指導したプロ・チャンピオンのカロル・ブライル(Karol Briill)は、ケニー・ロジャースの曲「If I Were A Painting」でワルツ踊りました。それは私たちの振り付けを彼ら自身の解釈で踊るワルツとして有名になっていたもので、涙もろくない人たちでさえ、抑え切れずに泣いていました。若い世代の誰もが、ダンスがこれほど美しいとは想像していませんでした。

 

その夜の準備は、イェスパーとアンナ(Jesper and Anna/二人はダブルショーに出演)、そして、デュッセルドルフ出身の私の最も古い友人であるフォルカーとザビーネ・ヘイ(Volker and Sabine Hey/彼らの会社Sports-picture.netでダンス写真のギャラリーを充実させています)と、トロイスドルフ(Troisdorf)のタンツシューレ・ブロイアー(Tanzschule Breuer)のメイン司会者であるマティアス・フロンホフ(Matthias Fronhoff)が、1年かけて準備してくれました! 改めて心より感謝申し上げます。

聴衆のためには、ドイツ選手権と世界選手権で演奏している契約オーケストラであるフィードバック・ダンシング・バンドが参加しました。私の子供たちは、何らかの形で私たち家族の音楽の伝統を継いでいることを証明してくれました。即ち、彼らはバンドに混じってパーカッションを演奏したのです。バンドリーダーはラファエルとレベッカ二人のリズム感の良さを賞賛していました!

このパーティーの締めくくりには、誰もがびっくりするサプライズがありました。私に真新しい靴が与えられ、名誉あるこの日を締めくくって欲しいと頼まれたのです。パートナーには、最愛の元生徒アレッサンドラ・ブチャレッリが与えられました。彼女と踊りながら、フレッド・アステアがシド・チャリシーについて語ったのと同じこと ―― 「彼女と一緒に踊れない人は何か他のことをすべきだ」を感じていました。

マティアス・フロンホフは、私にはスロー・フォックストロットのお気に入りの曲があると言い当てました。でも、その曲はCDではなく、私のために特別に演奏するため、87 歳のユーゴ・ストラッサーがフロアに入ってきたのです。彼はフィードバック・ダンシング・バンドに加わると何をしたと思いますか?あなた予想は 間違いなく当たっています。”Autumn Leaves”を、いつもの少しゆったりしたテンポで演奏してくれたのです。

私は完全に練習から遠ざかっていましたし、当然のことながら、ウォーミングアップする時間もありません。これはダンサーやスポーツマンにとってあまり良いことではありません。しかし、ユーゴの最初の音で、鳥肌が立ちました。

私が踊り始めると、アレッサンドラが天使のようにフォローしました。約1分後、私は20年間の練習の矛盾を感じ始めました。喜びと苦痛が入り交じる一方で、87歳のユーゴ・ストラッサーがミュンヘンからはるばるやって来て、私のために2分40秒のフォックストロットを演奏してくれているのですから、50歳の私もそれくらいやれる筈だと思いました。昔の野望がまた湧いてきました。

演奏の終わりと共に踊り終えた時、1986年に世界選手権で優勝したときの振り付けを、ほぼそのまま本能的に踊っていたことに気づきました。50歳の誕生日に、ようやく音楽と振り付けがひとつになったのです。

 

私にとっても、他の誰かにとっても、本当にあのような夜を過ごすに値したのでしょうか? それは分かりませんが、私は今、心から感謝の気持ちを込めてあの夜を振り返っています。そしてまた、私の現役時代とは無縁だった素晴らしい子供たちが、この夜を見守り、体験してくれたことをとても嬉しく思っています。このような圧倒的な感情溢れる中で、子供たちの心にも響くものがあったのではないでしょうか。

私の人生の中の様々な時代の友人、仲間、元生徒たちに会い、彼らの何人かと話をすることもできました。その場にいたのに、後で招待客のリストを見て初めて気がついた人もいます。あまりに人数が多いので、個人的に挨拶する時間がありませんでしたが、今、ある教え子の言葉を思い出しました。彼女は、その夜の終わりに私のところに来て私を強く抱きしめると、耳元で「私の愛するオリー、周りを見て。みんな、あなたが大切な人だからここに来たのよ。ダンススポーツの祭典で、これほどまでに愛が感じられたのは初めて!」と囁いてくれたのです。

 

“You must have done something right!”

「あなたは、何か正しいことをしたに違いありません!」

 


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