FL34 初恋は音楽 17. 経験を生かす

投稿者: | 2023年6月2日

今回はいくつものショーの話が出てきます。私はそれらを実際に見ていませんし、もはや、オリバーに質問することもできないので、翻訳でおかしなところがありましたらご容赦下さい。

目次紹介

“Music Was My First Love”
初恋は音楽

 

17.経験を生かす
Using Experience

これまで学んだこと、経験したことの積み重ねは、ほぼ私のキャリアの中に於ける選曲や曲の組み合わせに対する責任と繋がることになります。最初の頃、ポータブルカセットプレーヤーの「一時停止」ボタンを適切なタイミングで押せず、まるでお腹の調子が悪い時のような音が聞こえたときは、高品質の機械が欲しいと思ったものでした。私のモットーは、私が教師を選んだ時と同じように、「最高のものが私に丁度良い」でしたから。安物を買って節約できたお金は、後に修理代になったり、別の安物を買うことになるでしょうから。

そこで、はるか昔に存在していたHi-Fiマーケットからレボックスのオープンリールを購入しました。私はダンス以外の分野では、技術的な才能があまりないので、もし、そっちの方のことを書いたとすると、本の半分は埋まってしまうでしょう。レボックスでも、経験を通して音楽の最適なカッティング・ポイントを手でリールを動かしながら見つられるようになりました。これで、多額のお金を節約できましたし、かなり良い経験となりましたが、それがすぐに大舞台で役立つことになったのです。1986年、ミュンスターにあるハーレ・ミュンスターランドで主催された世界ラテン選手権で、私の「レジデンツ・クラブ」がショーを行うことにしました。それはプログラムとしては、かなり珍しいものでした。誰もが私を信頼して私の創造性に任せてくれました。

当時、私は2つのフォーメーション・チームをコーチしていて、音楽はミュンヘンのワーナー・タウバーが作っていました。この頃の私は、まだまだ経験不足でエフェクトの掛け方もアッチェレランド(だんだん速く)やリタルダンド(だんだん遅く)するなどの方法も知りませんでしたし、同じ曲を使ってダンスをスムーズに切り替えるコツも知りませんでした。その契約からショーまでの間にたくさんのことが起こりましたが、その時の世界アマチュア・ボールルーム選手権大会で優勝し、10ダンス総てで世界の流をつかみました。初公演におけるこの「ダブル世界チャンピオン」は、当初の予想を超えた祝福を受けました。

 

私はショーを、自分で初めて作った「手作り」1次リーグ・ボールルーム・フォーメーション・チームへと広げ、彼らはディズニー映画のメロディーに合わせて踊りました。同じく、ラテンチームの「TD Red-Whiteデュッセルドルフ」はパリ市街でミュージカルの輪を広げていました。新しいデッキで音楽を完璧にカット編集できたので、独自の振り付けをした二つのフォーメーションを交互に見せつつ、その真ん中に自分たちの見せ場を持ってきました。白のドレスで! 音響(選曲)と映像(適切な振付)で観客の感情を揺さぶる試みは、あの時が初めてだったことを鮮明に覚えています。

ボールルーム・フォーメーションの終わりに使ったディズニーの場面を私たちのショーの始まりに結び付け、メリーポピンズの「チムチム、チェリー」を使いました。そこから、ビリー・プレストンとシリータ(Billy Preston and Syreeta)のロマンチックなデュエット「With you I’m Born Again」のワルツの曲に移りましたが、その曲自体がとても感情的な曲でした。タンゴには伝統的な「オレ・ガッパ」を使いました。この曲は認知度が高く、音楽的にも、聴衆にはタンゴであることがすぐに伝わります。

このように、音楽を選ぶときは常に聴衆のことを考えていました。そして、クイックステップにはライザ・ミネリの「キャバレー」を選んだのでした。既に盛り上がりを感じていた私は、この曲の最後の1/3から始めました。メインテーマのリフレインがアッチェレランドして始まるからです。そして、自分たちの踊りの最後にはマントヴァーニ・オーケストラが演奏するコール・ポーターの「I Love Paris」のストリングスだけのものを持ってきました。これにより、同じ曲を使ったラテンチームはサンバとルンバにスムーズに移行することができました。

最大のフィナーレには、ロジャー・ウィテカー(Roger Whittaker)の「What Love is」という非常に珍しい曲を使い、ダンサー全員が一つになるという構想でした。その曲はルンバとスロー・フォックストロットとして理想的なテンポと雰囲気がありました。数分間にわたる雷のような拍手は、出演者へのご褒美となりました。それを生で観た人たちは、あるいはテレビ放送で見たとしても、あのパフォーマンスを記憶していることでしょう。

  

 

 

当時マンハイム(Mannheim)で開催された最初のドイツ・オープン選手権で、私たちは初めてプロとして踊りました。その頃はありましたが、後に外されたプログラムに招待競技会というのがあり、実際の選手権上位6組が踊りました。まず、テスト・ダンスとして「ベーシックのみ」のダンスが1つあり、それに、通常の5種目とショーがありました。そこでも私たちは真っ白いドレスと真っ白いテールスーツを着て、グレン・ミラーの曲のメドレーに合わせて踊りました。セント・ルイス・ブルース・マーチの曲に合わせて踊ったタンゴは聴衆には大成功でしたが、私は振り付けでミスをしていました。プロになったばかりでルールを知らず、音楽にぴったり合うタイミングでホールドを離す振り付けをしたのです。しかしそれは、ルール違反でしたので、それに気づいたジャッジから減点されました。しかし、私の音楽選択と演出に関しては、私の直感が非常に正しいことが観客の反応から理解できました。プロとして国内タイトルを獲得し、ヨーロッパで2位になった後、私はルールブックも扱う機会を得ました。

 

最も愛されているコンテストの1つは、世界最大規模の社交ダンス教師年次会議の最終夜に開催されます(それは今でもそうです。INTAKOはADTVの国際会議の名前です。ADTVはAllgemeiner Deutscher Tanzlehrerverband、ドイツのダンス教師組合の略です)。私たちはスーパー・ワールド・カップから招待を受けましたが、それは世界中から8組のカップルしか得られない栄誉でした。その招待状は1989年に届きました。競技会は2部門に分かれていました。ユーゴ・ストラッサーと彼のオーケストラが第一部で演奏しました。第一部は、ベーシックのクイックステップから始まりました(ベーシック・フィガーのみ)。それから5種目が続きました。即ち、ワルツ、タンゴ、ヴィニーズ・ワルツ、スロー・フォックストロット、クイックステップです。衣装交換などのインターバルの後、8組が個別のショーを踊りますが、その審査方法はアイススケートと同じように技術点と演技構成点で行われます。

このときのショーには、それまで以上に時間をかけて最適な音楽を捜しました。まず、その日の観客のことを想像しました。それから、とても高級なガラの夜、各テーブルには花が飾られキャンドルが置かれている競技会場の雰囲気について考えました。このイベントは伝統的にイースター日曜日の午後のコーヒータイムにテレビ第2チャンネルで放映されることになっており、社交ダンスを披露する格好の機会でした。

この本の最初の章で、父のクラシック音楽への愛と、それがどう私に受け継がれたかについて話したのを覚えている方もおられるでしょうが、その私の最も親しい友人である父がのイベントの約14か月前に亡くなりました。どこからか見守ってくれているその父に、特別なイースターエッグをプレゼントしたいというのは当然の思いでした。そこで、メインの曲は「魔笛」の二重唱にし、オリジナルのオペラ版の曲を使いたいと思いました。このオペラの終盤では、鳥捕りパパゲーノと、同じ職業のパパゲーナが再会し、子供のいる家族としての未来を夢見るようになります。このシーンは通常であれば、演出にもよりますが、コミカルでどんな観客を相手にしても大成功となるでしょう。しかしそれまで、この種のオリジナルのオペラ音楽を敢えてダンスに使用した人は誰もいませんでした。クラシックをポピュラーなダンス音楽にアレンジしたものはすでに存在していましたが。私はモーツァルトの「後宮からの誘拐」序曲の一部やトンマーゾ・アルビノーニ(Tommaso Albinoni)のアダージョ、アルカンジェロ・コレッリ(Arcangelo Corelli)のコンサート、ニコロ・パガニーニ(Nicolo Paganini)のテーマも使いましたので、それを午後のリハーサルで聴いたライバルの中には、それを馬鹿げているとして、リハーサル後に私をからかってきました。しかし、その夜の聴衆の反応はその反対でした。その時の私たちの最大のライバルはロンドンから来たマーカス&カレン・ヒルトンMBEでしたが、競技時代からも、そして、今なお、この素晴らしい二人と親友でいられることを、とても幸運で幸せに思っています。お二人は盲目的に信じ切れる人たちなのです。マーカスとカレン、ありがとう!

ショーの始まりの聴衆の反応はいつもの様でした。つまり、とても良かったのですが、パパゲーノが歌い始めるや、それどころではなくなりました。観客は私たちの踊りに完全に引き込まれたのです。あの頃はカラオケが流行る前でしたが、私も盛り上がってしまい、音程がどうのこうの、タイミングがどうのこうの、なりふり構わず一緒に歌い始めたのです。その結果どうなったか? 私は女性のパパゲーナの所でも歌ってしまったのです! 「雨に唄えば」の有名なシーンに「トーキー」の場面が流れ、男性が女性の声で話したり、その逆もあったりして、まったく奇妙な感じでしたが、あれと同じことをやってしまったのですから、恥ずかしかったです!  これは、事前に準備したことしか実行できないという、いい証明でした。しかも、オペラを歌のことは私の優先順位の上位になかったことでしたし。しかし、このショーに聴衆は興奮し、審査員たちも納得。芸術的点で1/10(!)の差をつけて、私たちはスーパー・ワールド・カップをヒルトンの前で優勝しました。そこには私から父に至るまでの笑顔があふれていました。

 

人々は非常に興奮しました。と言いますのも、翌年のスーパー・ワールド・カップのラテン部門で同じスタイルのショーを踊るよう招待されたからです。2度目となるその時はルールに従う必要はなく、「フィガロの結婚」のメロディーをすべて使用し、振り付けも自由にできました。もちろん、良い音楽の主要要素として、そもそも観衆が聴きたいものであることがあります。もちろん、この本にも書いていますが、私は常に聴衆のことを考え、聴衆が私の好みの音楽に共感してくれるか、あるいは、彼らが聞いたことのない音楽でも、それが良いパフォーマンスと結びついたときに聴衆を納得させるだけの力を持つかどうかを考えるようにしています。ご存じの通り、私はラットパック(シナトラ、マーティン、デイビス・ジュニア)の大ファンです。優れた振り付けを作るには、その音楽が創造的な振り付けに十分適していることが必要になります。そこで、何年もかけて集めたサミーのレコードのコレクションに当たりました(当時CDはありませんでした)。彼のレパートリーはアイデア一杯の宝箱のようなものだからです。そして当然の如く探していたものが見つかりました。「Mr. Bojangles」, 「If My Friends Could See Me Now」, 「Children Children」 そして、「Birth of the Blues」です。このショーのアイデアは、ロンドンのロイヤル・アルバート・ホールで開催されたビッグ3のコンサート、即ち、サミー、ライザ、フランクによる究極のイベント中に思いつきました。このライブのことは既に詳しく書きましたね。その時クイックステップとスロー・フォックストロットに使ったサミー・デイヴィス・ジュニアの曲は、その後の競技会でも頻繁に使われるようになりました。私自身が残りのパフォーマーとしてのキャリアの中で使ったクイックステップの「The Lady is a Tramp」の曲は、1979年シドニーのオペラ・ハウスでのライブ・バージョンのものです。その後、私はその曲をウィリアム・ピノとアレッサンドラ・ブチャレッリに、2人の才能に合った新しい振り付けと共に渡しましたが、二人は音楽をさらに一歩前進させました。当然、これがあるべき姿です。次世代は、これまでに行われたすべてのものに独自のアイデアを加える必要があります。それが進歩というものです!

 

競技から引退した後、私は新たな挑戦に挑みました。私はいつも忘れられないマリオ・ランツァ(Mario Lanza)のボーカルに合わせて踊りたいと思っていました。映画で最も有名なオペラのテノール歌手マリオ・ランツァは、これまでステージでオペラを全編歌ったことがありませんでした。彼のボーカル・レコーディングは、まるでライブのように行われました。あらかじめ録音されたストリクト・テンポはなく、オペラのように歌手とオーケストラの二重奏のように自由に演奏されます。

聴くには比類のないほど美しいですが、踊るのは非常に難しいです。なぜなら、リタルダンディ、アクセルダンディ、フェルマータなど予定されている以外の所でも、一定のテンポの変動があり、それは聞いている分にはほとんど分かりませんが、スウィングしている最中には簡単に感じられます! ダンサーにとって、見た目よりも遥かに大きな挑戦です。そこで、仲間の先生に目をつけました。ピーター・マックスウェル(Peter Maxwell)のところへ行ったのです。彼はバレエ団とのつながりがあるので、この音楽から最大限の力を引き出すことができると思ったのです。私がロッシーニ(Giachino Rossini)のナポリ歌曲「ラ・ダンツァ(La Danza)」のインストゥルメント版を選ぶと、ピーターはタンゴの振り付けをしました。それは天才的な仕事でした!

ショーのフィナーレは、映画のためだけに書かれた曲「Be My Love」を歌うランツァの情熱的な歌声に合わせて幕を閉じました。このショーは「The Desert Song」の曲で始めました。それは、このショーと同じブラックプールで講義することになっていた私の「第二の父」ビル・アービンへのプレゼントでした。彼はこの曲が大好きだったのです。「The Desert Song」はシグムント・ロンベルク(Sigmund Romberg)の同名のオペレッタからのものです。ショーは驚異的な成功でした!

 

 

 

ブラックプール用に再びピーター・マックスウェルと共に、私たちは引退からすでに2年が経過していましたが、未来に向けて更に一歩前進したいと考えていました。私のレクチャーの主題はタンゴでしたので、私たちの競技タンゴとアルゼンチン・タンゴを1つのショーに混ぜ、まだ十分に開発されていないアイデアを得られるようにする計画しました。私が選んだ音楽は、ブロードウェイのショー「タンゴ・アルヘンティーノ」バージョンの「ヴェラーノ・ポルテーノ(Verano Porteno)」でした。これはダンサーにとっても振付師のピーター・マックスウェルにとっても挑戦でした。しかしはっきり言って、ピーターにそれができなかったら、他の誰ができるでしょう? 彼はやり遂げました! 振り付けは息を呑むようなもので、歴史的かつ未来的、伝統的かつ先駆的でした。マクスウェル、心から感謝します。私はあなたから数え切れないほど多くのことを学びました!

 

 

私のことを知ってきた親愛なる読者の皆さんは、あのショーを見落とす筈はありませんね?  さて、ダンスにおける私の最大のアイドルは誰でしたか? そう、フレッド・アステアです。彼のために特別に作曲されたメロディーを使ってショーを作る、それ以外ないじゃないですか。その時のショーには何の規制もなかったので、自由に動き回ることができました。

私の親愛なる友人であるヴィンセント・バルジャー(Vincent Bulger)氏は、フレッド・アステア・ダンス・スクール・チェーンの元会長です。脳卒中によりあまりにも早くに亡くなりましたが、その彼から、私たちは非常に特別な招待状を受け取りました。それは、ラスベガス・ヒルトン・ホテルで開催されるフレッド・アステア・スタジオの全オーナーによる年次会議に招待し、レクチャーとショーの依頼でした。16時間の旅の後、私たちにはダンスの準備に丁度2時間ありました。長いフライトの後に少しでも踊ろうとしたことのある人なら、それがどれほど難しいことか想像できるでしょう。特に脚部への負担は通常の何倍もかかります。会場はヒルトンホテルの大きなボールルームでした。胸に白いカーネーションを挿し、つまみのついた杖を持ったフレッドのように、イブニング・ガウンと燕尾姿でカジノを抜けてボールルームに歩いていく感覚は、最高でした。

エルヴィス・プレスリーが70年代にここで大規模なライブ復帰を果たした当時は、まだ国際ホテルと呼ばれていました。ボールルームには、そこで年配の女性の一人に個人教師をしていたフレッド・アステアの写真が壁いっぱいに飾られていました。それを見て私がどう感じたかですって? あの小さなオリーが遂にラスベガス! 私たちのショーは、アステアの後年の映画ヒット曲で構成されていました: “The Band Wagon”からの”Dancing In The Dark”, “Silk Stockings” からの”Fated to Be Mated” そして、彼の最後のミュージカル”Finian’s Rainbow” からの”Look to The Rainbow”です。

ボールルーム全体からの大きなスタンディング・オベーションを受けた後、他のいくつかのダンスが続きました。私たちは祝福され、多額の報酬を受け取りました。ヴィンセント・バルジャーは私たちをラスベガス・スタイルのショーにたくさん連れて行ってくれましたが、その中に、ミラージュ・ホテルで行われていた「ポインター・シスターズ(Pointer Sisters)」もありました。ジークフリートとロイ(Siegfried and Roy)はホワイトタイガーとライオンを連れてヨーロッパツアーに出ており、ショールームは無料でした。シスターズのショーは珍しいもので、二人は「雨が降っている」を歌いながら、油圧でステージに上がってきました。

 

私たちのパフォーマンスは大成功を収め、フロリダのウェスト・パーム・ビーチにある世界的に有名なブレーカーズ・ホテルへの招待が続きました。そこでは本物のハリウッドスターのダンサーが観客の中にいました。多くのB級映画のスターであるマージ・チャンピオン(彼女の夫はタップ・ミュージカル「42nd Street」の振り付けをしており、ディズニーの白雪姫のモデルとしても活動していた)が、私たちに会う目的で、自分の予定を前倒しして飛んで来てくれたのでした! それを、ダンスの1時間ほど前に知らされたのですから、私は緊張しっぱなしになりました。ショーの後で個人的な会話をしていた時、彼女は想像を超える程の褒め言葉をくださいました。彼女が言うには、私たちのダンスは、彼女たちがハリウッドで踊っていたのと同じだったというのです。ジンジャー・ロジャースのような浮遊感のある動きにより、私たちは音楽の可能性をより良く、より快適に使うことが出来たのです。

彼女はこのような話もしてくれました。彼女が夫とサウンドステージでリハーサルを行っていた時、私の偉大なアイドルが隣のサウンドステージでリハーサルをしていたことが頻繁にあったと言うのです。でも、彼女はフレッド・アステアを鍵穴からしか見ることができなかったと。1974年MGMは保管庫から最高の瞬間を集めて編集した映画「ザッツエンターテイメント!」をリリースしたとき、MGMは彼女をスタジオにエスコートする役に「彼」を手配しました。フレッド・アステアです。そして彼女は、私がずっと思い描いていたとまったく同じに、フレッド・アステアのことを「完璧な紳士」と表現したのです。

 

 

私のとても重要な仕事に、ラルフ・レピーネ(RalfLepehne)とコラボのダブルショーがありました。最初のコラボは、ハリウッド、南米、現代ミュージカルの3パートで構成されていて、コーラス・ラインから始まりダーティ・ダンシング、そして、マイケル・ジャクソンと続き、若い観客を取り込もうと試みました(このことについては前に詳しく書きました)。それからの3年間では、音楽と振り付けで四季を表現することにしました。どちらのダブルショーもドイツで何度もヒットしました。そこで私たちが経験したことは、もう一冊の本になる位です。正直、それ以来、私はほとんど笑わなくなりました。トレーナーとしてのキャリアの中で、私はよく音楽について講義してきましたが、今後もどのような題目であれ、講義を続けるつもりです。

数年前、私は審査員セミナーで、それまで誰もが不可能と考えていたことを証明しました。私は彼らに、優秀なダンサーは同じ音楽の中でも動きの変化をつけるだけで10ダンスを表現できると説明しました。そこで私は、有名なテナーサックス奏者Kenny Gの「The Moment」の曲を選びました。私が初めて聴いた瞬間に魅了された曲です。私は当時のドイツ・チャンピオンの女性、優秀なナターシャ・カラベイ(Natascha Karabey)とオクサナ・ニキフォロワ(Oksana Nikiforova)を選び、リハーサルもせずに、本当の意味で即興的に10ダンスすべてを踊りましたが、それは私にも女性たちにも実験でしたし、私個人にとっても、観客にとっても大きな冒険でした。フレージングやメロディーパートの変化に合わせ、ホールドしたままダンスを変えたので、それはあるダンスから別のダンスに繋げていくフォーメーションのようでした。だからこそ、このパフォーマンスは一層驚くべきものとなりました。

自分が感じたこと、本当に出来ると思ったことを上手く実行でき、観客からあのような反応を得られたことがとても嬉しかったです。この成功は私へのご褒美となりましたが、それもこれも、高い能力を持つ二人の女性が手伝ってくださったお陰です。あの状況下、男性にフォローできるようにするには、最高度の集中力でパートナーと完全に一体化する能力が求められますし、なにより、自分の体を知り尽くしていなければなりません。

そのようなスキルを持っている女性は殆どいません。そのスキルを持っているボールルームとラテンの女性と組めたのですから、それは本当に貴重な時間でした。私にとっても、私のアイデアにとっても、そしてKenny Gの「The Moment!」のCD売り上げに貢献した点でも!

 


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