FL29 初恋は音楽 14. レアな「ライブ・コンサート」

投稿者: | 2023年4月28日

オリバーは癌と向き合うことになりました。

目次紹介

“Music Was My First Love”
初恋は音楽

 

14. レアな「ライブ・コンサート」
One thing they hadn’t reckoned with and still “Live in concert”

 

2007年、私の運命は違う方からやってきました。私は2005年から大腸内視鏡検査を含めた全身検査を受け始めました。

 

1994年6月24日に結婚した妻ヴェラが遂に私の人生の夢を実現させてくれました。2000年11月21日に息子のラファエルが生まれ、2004年8月21日には娘のレベッカが誕生し、私たちの人生は幸せに満たされました。天のお陰、神のお陰です。そして私たちの努力のお陰です。

子供ができて、私たちの生活はガラッと変わりました(神に感謝!)。妻が、当然ながら子供たちと家にいることにしたため、主にコーチングが必要なフォーメーションなど、幾つかの専門的な仕事の場合を除いては、私はほとんど一人で旅することになりました。家族は家に、そして私は世界中を回って競技選手を教えたりコーチしたりすることになりました。家族ができたことで、私は自分の責任をより意識するようになりました。私たちは、子供たちはできる限り他人に預けることなく、母親と過ごすようにしたいと考えていました。それは私の両親が大変な時期に自分の子供たちにできなかったことでした。常に子供の傍にいられるようにするには、自分の健康管理も責任の一環でした。

それからの余暇というものは、動物園を訪れたり、長い間すっかり忘れていたようなことをしたりしましたが、なぜ私たちは子供時代の美しさを忘れてしまうのでしょうね?

 

2005年、レベッカの最初の誕生日直前の検査で、私は健康面でまったく問題なかったので、とても安心しましたので、2007年6月の検査でも、その時と同じことを期待していました。しかしその時は、新たな運命の出会いがあり、47年間知っていた自分の人生に別れを告げられたのです。もう二度と同じでいることはできない! この時は、私の担当医であるフリードリッヒ・ヴィルヘルム・コルステン博士(Dr. Friedrich-Wilhelm Korsten)が私の肝臓にトマト大の腫瘍を発見し、これが悪性腫瘍であることが判明しました。私は癌だったです! このような知らせを受けると、あなたでも、一瞬、トワイライトゾーンにいるような気分になりますよ。

その瞬間、私の耳の中で一つの言葉がぐるぐる回り続けていました――「戦わなければ!」。何としてでも戦うのです! 要は、息子が一人前になるのを見届けたい、娘が学校を卒業したら一緒にダンスを踊りたいということです。

 

この絶望的な診断から間もなくして、私はボンの大学病院で手術を受け、担当医のアンドレアス・ヒルナー教授(Professor Andreas Hirner)は肝臓の右側を切除しました。私の少し大きくなったお腹に残った大きな美しい傷。それが、キャリアが終わり練習もしなくなった私のお腹に起こったことです。それを見て子供たちは、私がT.レックス(T. Rex)に噛まれたようだと言っていました。手術はほぼ完璧で、関係するすべての医師も癌がなくなったと同じ意見でした! 

完全に安心するには5年の経過観察が必要でしたが、2008年9月、運命が再び襲いかかりました。先の手術で切除した場所に3つの新しい腫瘍が成長していたのです。グレーベンブロイ(Grevenbroich)のエリザベート病院長であるコルステン博士(Dr. Korsten)の診断によると、これは新しい腫瘍ではなく、当時の手術の時点では癌と確認できなかったものだったという事でした。そこで、錠剤による化学療法を開始し、その後、定期的な注射による治療法に変更しました。今回は、最初に知らせを受けたときよりも一層動揺しました。現在治療中の私は、ある程度耐えうる副作用と一緒に過ごしています。コーステン医師は、治療中も私の生活の質を高める可能な限りのことをしてくれました。

 

2010年5月、私は世界で最大かつ最も伝統的で最も重要なダンス・フェスティバルであるブリティッシュ・オープン・チャンピオンシップに行きました。私の32度目のブラックプールです。そこで突然、胸骨に耐え難い痛みに襲われ、殆ど動くことができなくなりました。50歳の私は、まるで90歳の年よりのようでした。そこで、ブラックプールから戻り病院に直行しました。検査の結果、横隔膜と胸骨の接続部に転移が発見され、それが、この信じられない痛みの原因と分かりました。この本を書いている今、私は強力な化学療法を頼りに、4週間に1度の治療を受けています。有難いことに、私の場合、多くの同じ治療を受けている人とは対照的に、ほとんど副作用が出ていません。コーステン博士と彼のスタッフのお陰です。この治療法と先生のアドバイスに従います!彼を信用しています! 勿論、医者は神ではないので、奇跡を起こすことはないと良く知っています! しかし、彼らが人間であることの救いはあります。コルステン博士がその生き証人で、多くの人たちが生き延びていることを証明する数字があるのですから、私もその一人になるべく、これからも戦っていくつもりです。妻や子供たち、特に妻(!)には、とてもよく助けてもらっています。旅先でも彼女は電話で私を慰め、心配し、励ましてくれているのですから、一緒に頑張って乗り越えなくては!

 

2007年6月末にボンの大学病院で手術が予定されていましたが、その前に、1度だけ旅行が許可されました。その旅は、私の音楽の「欲しいもの」リストの最後の願いを叶えるために、とても大切なものでした。その時、全くの偶然で、私が現存する最も偉大な女性ポピュラー音楽の解釈者と思っている人が、ヨーロッパでコンサート・ツアーを行うことを知りました。それを見に行くには、6月末にウィーンのシェーンブルン城(Schlof Schonbrunn)の前で行われる野外コンサートしかありませんでした。ためらう理由は何もありません!妻と私は13回目の結婚記念日を前にウィーンに飛びました。

ホテルに着くと、少し休んでからドレスアップしました。そしてレセプションでタクシーを依頼すると、どこに行きたいかと尋ねられました。私たちが「シェーンブルン城に行きたい」と言うと、ポーターは完璧なウィーン弁で、「バーブラ・ストライサンドのコンサートは中止されましたよ。観客席の椅子が宙を舞うほどの巨大嵐で舞台が壊れたからです」と言うではありませんか! 私たちが城に向かうと、ポーターの話がすべて正しかったことを知りました。チケットはその場か、郵送で払い戻しされるという事でしたが、コンサートそのものは翌日に延期されました。

完全に落胆した私たちは、真夜中にベッドに横たわりながら、今度バーバラ・ストライザンドを見る機会がやってくるのだろうかと自問しました。その結果、レセプションに電話して宿泊を1泊延ばすことにしました。帰りの飛行機の予約もし直し、ホテルから空港への送迎も変更しました。

 

翌日は素晴らしい夏日。外気温28℃の中、歩行者専用区域を散歩してからホテルに戻り、その日を祝うために熱い風呂に入りました。泡風呂でリラックスしながら、スーパースターの歌を口ずさんでいると、ザーッという音が聞こえてくるではありませんか。すぐに妻を呼んで、「この大喝采は私の風呂の入り方に送られているの?それとも、恐れていることが起こっているの?」と聞くと、「嵐のような雨よ」と言うのでした。「こうなりゃ『雨に唄えば』だ」と、少し大げさに叫ぶ私がいました。それから、私たちは時間通りに城に到着すると、椅子も舞台装飾もきちんとありましたが、席数は1/3くらいだったかもしれません。

やはり、チケットを持っていた人達の皆が皆、日程変更とはならなかったようです。私たちの場合、妻の両親が面倒を見てくれていた子供たちは、いつものように理解を示してくれたので、もう一泊出来たのです。

 

まだ風は強く寒い日でしたが、気にしませんでした。城を背景にした巨大ステージの幕が開くと、そのスターがいました。彼女は、人前で演技をすることが何より怖いと包隠さず話す程で、それが、彼女の舞台やライブがなかなか見られない最大の理由でした。それを考えると、私たちはとてもラッキーでした。

彼女の歌を初めて聞いたと言えるのは、私の気持ちの中では、1987年、アメリカのレコードショップです。そのことについて書いたのを覚えていますか? それは、「ウエストサイドストーリー」の「Somewhere(きっとどこかに)」で、あれは究極バージョンと言えるものでした。

 


ディーン・マーティン  ⬅  ➡ 14-1. レアな「ライブ・コンサート」 バーバラ・ストライサンド