FL28 初恋は音楽 13-9 ライブコンサート/ディーン・マーティン

投稿者: | 2023年4月21日

30代後半のことです。山手線を降りて改札に向かう階段を下りていると、物凄く懐かしい、忘れかけていた曲が聞こえてきました。それは、改札口前のCDの出店が流していた”Everybody Loves Somebody Sometime”。すかさずその曲が入っているオールディーズのセットを買いました。今でも良く聞いている大好きな曲です。

 

目次紹介

“Music Was My First Love”
初恋は音楽

 

13-9 ライブコンサート/ディーン・マーティン
  Live in Concert 

 

DEAN MARTIN (7.6.1917 – 25.12.1995)

シナトラとサミー・デイヴィス・ジュニアが好きな人で、ディノ(ディーン・マーティン)を飛ばす人は殆どいないでしょう。ヨーロッパに住んでいて、コンサートを見たいと思うことには、基本的にディーン・マーティンのコンサートが含まれているものです! ディーン・マーティンは1961年にはフランク・シナトラと一緒にドイツに、1983年にはコンサート・ツアーでロンドンに行きました。 その時の私には、そのコンサートのためだけにロンドンまで飛んで行く余裕はありませんでした。 当時、ロンドンへのフライトは約 1,000 DMでしたし!  でも幸いなことに別の機会が訪れました。

 

1990 年 9 月、マイアミで開催された全米オープン選手権に向かうフライトの中でパートナーと私は競技から引退することを決めました。私はいくつかの理由から、この決定的な最後の大会の前に、一人きりになりたいと思っていました。その大会は、バレエのような踊りをするカップルのために特別に企画された、エキシビション・ダンスの世界選手権で、私たちは、「エキゾチック」パートと「それを満たすカップル」として招待されました。私たちは、4か月前に亡くなった「サミー・デイヴィス・ジュニアへのオマージュ」を踊ることにしましていました。

 

このコンペ開催まで4 日の余裕があったので、すぐにラスベガスへのフライトを予約し、素敵なショーを一つ二つ見られることを願いました。 ベガスに出発する前、私のベガス滞在中にバリーズ・グランド・ホテル(Bally’s Grand Hotel)でディーン・マーティンのショーがあることを知りました。それは、3年前に彼の元パートナーであるジェリー・ルイスと彼のラット・パック相棒のサミーを見た時と同じホテルでした。通常、ホテルの宿泊客はナイトショーを優先的に見ることができるので、私は慎重に、バリーズグランドを予約しました。どうやら念のために何度も電話したようで、チケットを受け取ろうとしたら、私の名前で11件も予約が入れてありました!

ラスベガスのマッカラン空港に着陸した後、私はホテルにチェックインしてから、「ストリップ」通りに沿ってラスベガスのダウンタウンまで長い散歩をしました。途中でいくつかのレコードショップを見つけました。 サミーのコレクションに不足していたレコードに加え、かなりの数の珍しいものを見つけることができました。 馬鹿な話ですが、誰でもベガスに行けば分かることなのに、私はベガスが砂漠の真ん中にあると考えたこともありませんでした。ベガスの気温からでも分かることなのに。私は肌がとても白いので、長時間日光に当たると、肌が赤くなる傾向があります。それは、シェフの手から逃れようと思わず鍋の中に入ってしまったロブスターに例えられるかもしれません!真っ赤にならないよう、効果の高い日焼け止めクリームを買って塗れば良かったです。そうすべきでしたのに、現実は日焼けしてマイアミに戻ることになりました。

 

でもここでは、ホテルの話に戻しましょう。とあるウェッセル・テルホーン氏に一つの指定席が与えられました。 素敵な夕食から始まり、”The Gold Digers”という名前の女性のダンスと歌のパフォーマンスを見ました。 ディーン・マーティンは、この時点ですでに重病であったことを知っておく必要があります。また、ディノは極端な「家族思い」でした。2度の結婚で授かった7人の子供たちは全員ひとつ屋根の下で育ったことからも、どれ程家族思いだったかを物語っています。 彼はロサンゼルスで働いていたときも、6時の夕食に間に合うよう、どんな仕事をしている時でも、仕事を止めて帰宅しました。これはイタリアの大家族の伝統です。このように、パブリック・イメージとプライベートのイメージが違うことがあるものなのです!また、ディノの両親も一緒に暮らしていました。2度目の結婚相手、元ビューティー・クイーンだったジェニー・ビガー(Jennie Biegger)との間に出来た長男を彼は溺愛していました。

そのディーン・ポール・マーティンは父親のイメージそのままに、最初はミュージシャンとして、次は映画やテレビで活躍し、自分の運命の日まで、スターとして活躍しました。彼はスターファイターのパイロットとなり、英国空軍の大尉となりました。1987年のある日、ディノ・ジュニアと彼のチームは演習飛行に出ると、数分以内に、彼のジェット機はレーダー画面から姿を消しました。数日後、ジェット機の残骸が発見されました。ゴルゴニオ山はすでに多くの犠牲者を出している山でしたが、彼は離陸して間もなくその山に近づきすぎました。天候が悪かったのでディノ・ジュニアは管制塔に高度変更の許可を求めました。彼のチームメンバーは直ちに事故回避する必要を感じましたが、ディーン ポール・マーティンは誠実に公式回答を待ち続けた結果、管制塔の了解が出る前にジェット機はその山に激突し、彼と副操縦士が死亡しました。 奇妙なことに、フランク・シナトラの母親は、パームスプリングスからラスベガスの息子のコンサートに向かう途中、悪天候の中のフライトで、同じような悲劇的事故で亡くなっています。しかも、それはポール・マーティンが亡くなった10年前のほぼ同じ日でした。 彼女を乗せた飛行機も高度調整が間に合わず、ゴルゴニオ山に激突したのです。

(注)サン・ゴルゴニオ山:カリフォルニア州南部で最も高い 3,505 m の山。オールド グレイバック (Old Greyback ) としても知られている。(ウィキペディアより)

 

その後のディーン・マーティンは人が変わってしまいました。 彼は、息子が父親よりも先に去らなければならない運命が受け入れられませんでした。 本書の別の所で「最上級のイベント」について書いていますが、もともとは、サミー・デイヴィス・ジュニアとフランク・シナトラが、親友ディノを悲しみや無気力から解放するために考えたことで、彼ら仲間3人の昔を取り戻すツアーに出ようとしたのでした。そのツアー計画はビバリーヒルズ・ホテルで開かれた大規模な記者会見で発表されましたが、サミーはそれを伝える名誉を得ました。ツアー名は「Together again!」です。その数時間以内に、すべてのコンサート・チケットが完売になりましたが、どの会場も約 15,000 人収容できる大きさでした。ベガスのSands Hotel で行ってから 30 年経った今でも、Rat Pack の人気はそれだけの集客力を持っていました。 しかし、新しいツアーの会場は、ディーン・マーティンにとって苦痛でしかありませんでした。彼には大きな会場は快適に感じられなかったのです。彼の仕事上の住まいは、最大 700 人程度収容できるくらいのナイトクラブでした。 このツアーのセンセーショナルな成功にもかかわらず、ディノは3回目のコンサートの直後に、病気と診断されました。それで、ライザ・ミネリが彼の代わりに加わり、「最上級のイベント」の話につながるわけです。

 

もちろん、その日のディーン・マーティンのショーを観ていたとき、私はそのすべてを知っていたので、彼はあまり歌わないことも分かっていました。 彼の「見せ場」は、酔った歌手の完璧な物まねでしたが、ディーン・マーティンはハリウッドでも最もクールな男だったので、それを演じるのに余り気取る必要はありませんでした。そして遂に舞台裏から司会者の声が聞こえました。「レイディース&ジェントルマン、バーから直接お届けします!ディーン・マーティン!」 その後の1時間は、ギャグの連発!自然で完璧なエンターテイメントでした。これほど笑っているのを見たことがないほどに観客は笑っていました。 しかし、何百万人もの女性、男性を興奮させた彼の通常のビロードのような声とは、まるでかけ離れた声でした。いつもは皮肉っぽくさえある爽やかな表情は、とても悲しそうに見えたのです。 実際、時折ぼんやりしているようにも見えました。 事故から 3 年経っても、彼の心の中も顔も悲しみを抱えたままでした。 それを考えると、彼のことを悲しく思いました。彼の痛みを理解しようとしても、それは無理な事でしたが、この暗い悲しみを通して、彼は私たちに、自分の心を深く覗き込むことを許してくれました。

 

ディーン・マーティンは、他の誰よりも同僚に人気があり、映画のヒーローであり、ジェリー・ルイスと組んだ伝説のチームで最も成功したコメディアンであり、フランク・シナトラのREPRISEレーベルで録音したレコードは、何百万人もの、特に女性に買われていたシンガーです(特にラテンアメリカ音楽の『チャチャダムール』と『ディノ・ラティーノ!』が有名。)そして、ディーン・マーティンは、シナトラ自身が何年も前に歌って大失敗した曲を歌ってNo.1のヒットを飛ばした最初のアーティストでもあります。その彼の墓石にはどう書かれているのでしょう?

Everybody loves somebody sometimes!

 

妻を特別な誕生日に連れて行ったシャーリー・マクレーン(Shirley MacLaine)のショーについては、あまり書いていませんでした。 その時、私はオーダーメイドの茶色のスエードのスーツを着て最前列に座っていました。 幕が開くと、階段に立っていたマクレーンは聴衆を見渡しました。そして、その目は私のスーツを見て止まりました。大げさに話している訳ではなく、実際そうだったのです。「なんて素敵なスーツでしょう!」 これが彼女の口から出た最初の言葉でした。 それから彼女の90 分間のショーが始まったのですが、その2/3は、彼女は私の目にいました。しかもショーを終えるに当たり、彼女は赤いバラにキスをすると、それを私にくれました。こんなラッキーな事ってあるのでしょうか?しかも、自分の誕生日でもないのに。

 

私にとって、「ラテンの恋人」フリオ・イグレシアス(Julio Iglesias)の評価は低いです。 他の素晴らしいコンサートでは、スターたちが有名な歌を歌い始めると、通常、聴衆から拍手が起こるもので、スターたちは、それに応えるように、少しうなずいたり、笑顔を見せたりして、スターにふさわしい行動を取るものです。しかし、フリオ・イグレシアスの場合は、全く違いました! 信じられません! 彼は、観客が拍手喝采を始めるやいなや、不機嫌そうに、拍手を止めてくれといわんばかりに手を振ったのです。サーカスでは危険な演技をする間、観客に静かにするよう事前にお願いすることがあります。それは容易に理解できることなので、誰もが、そうします。でも、これはショーです。ショーでは、莫大なチケット代を払った観客にこそ感謝の拍手があってしかるべきです! 観客の拍手は強要されるものではないので、逆に、すべてのパフォーマーが拍手を貰うには、それなりの努力をしなければなりません!その夜のフリオ・イグレシアスは私の拍手なしでした。 彼自身、余りにも自分のパフォーマンスに嫌気を指していたのですから、誰からの拍手も必要なかったのでしょう!

 


カテリーナ・バレンテ ⬅  ➡ レアな「ライブ・コンサート」