FL23 初恋は音楽 13-4. ライブコンサート/サミー・デイヴィス・ジュニア

投稿者: | 2023年3月17日

今回は繰り返し考えても分からない箇所がありました。自分で理解できないことを翻訳できませんので、やむなく省くことにしましたが、全体に影響がないので少し助かった気分です。理解できる日が来た時にはその部分を加えて完成しようと思っています。今回も私の背筋をピンとさせる言葉に出会いました。

 

目次紹介

“Music Was My First Love”
初恋は音楽

 

13-4. ライブコンサート/サミー・デイヴィス・ジュニア
  Live in Concert 

 

SAMMY DAVIS, JR. (8.12.1925 – 16.5.1990)

1987 年、私は代表団のナショナル・コーチとして、前任者と一緒に初めてアメリカに行きました。訪問先のひとつに、一泊しただけの光の街、ラスベガスがあり、訪問したまさにその夜、私が長い間待ち望んでいたイベント、ジェリー・ルイス(Jerry Lewis)とサミー・デイヴィス・ジュニア(Sammy Davis, Jr)の共演ショーが始まろうとしていたのは運命のように思えました。私がワールドタイトルを 3 度獲得したからといって、席に着くときは何のメリットもありませんでした。名前の最後に付けられた文字「W」では「Z」から着席開始しない限り、良い席に座れる可能性はありませんでした。親友のフォルカー&サビーネ・ヘイ(Volker and Sabine Hey)は私より良い席を確保していましたが、私が座る順になると、それを私に譲ってくれました。二人はこのショーが私にとり、どれほどのものであるかを知っていたからです。もう一度、お礼を述べさせてください。あの時の事は忘れません。

ジェリーとサミーが一緒にオープニングを飾った後、サミーがステージに上がりました。1メートル65センチと最も小柄で、かつ、史上最高のエンターテイナーは私の目の前に立ったのでした。(注1)

(注1)上記2つの段落は前回のウード・ユンゲルスの最後にあったものですが、サミー・デイヴィス・ジュニアのことなので、こちらに移動しました。また、身長に関する原文は”At 1,56 metres the smallest of them all,~”ですが、ウィキペディアのデータ、身長1.65メートルを使いました。

 

彼は私が夢見ていた総てであり、それ以上のものでした! 彼のようなスターのライブの雰囲気は、ビデオやサウンドトラックでは味わうことはできません。彼は自分のヒット曲を歌い、バラード、ジャズ、ミュージカルも同様に歌ってフレッド・アステアに敬意を表し、自分の歌に合わせて踊り、物まねをしました。 彼を完全かつ十分に見ることが出来ましましたが、鳥肌が立ちっぱなしでした。 そして、ジェリー・ルイスとの共演は最高のトッピングでした。この時の私は、そのわずか2年後に、サミー・デイヴィス・ジュニアが彼の仲間のフランク・シナトラとライザ・ミネリの2人と共演することになるとは、夢にも思いませんでした。

この3人の有名なコンサートは、以前ロンドンに住んでいた弟と一緒に、ロンドンのロイヤル・アルバート・ホールのとても良い席で見ました。その夜、サミーはマイケル・ジャクソンの物まねをしました。彼の物まねはとても面白いですが、決して彼らのパフォーマンスへのリスペクトを忘れることがありませんでした!!!  サミーは「オペラ座の怪人」の”Music of the night“、そしてもちろん”Mr. Bojangles”も歌いました。

 

彼は理想的なショーマンのイメージを作り上げました。 ファッションに関しては、他の人と違っていて、1960年代の終わりに彼が流行らせたネルーかヒッピー・ジャケットのどちらかと、極端に細いパンツか極端に太いフレアのスラックスを履いていました。それに、どの男性でも使っているような帽子とジュエリーです。聴衆の一人として、私が最も気に入ったのは、ダイヤモンドで作られたスーパーマンの「s」で、ジャケットの左襟に着けていました。

その夜の彼は宝石を全く身につけずにステージに登場しました。ヒット曲のひとつ”I’ve gotta be me“から歌い始め、リフレインにさしかかると、彼はジュエリーを身につけ始めました。「I’ve gotta be me. 私は私でなければならない….。 これで僕だと分かったかい? これが僕の社会保障番号さ。」  すごくおかしいですが、とてもスタイリッシュです。ジルベール・ベコー(Gilbert Becaud)は「ムッシュ1万ボルト」と呼ばれるのであるなら、私は今、「ミスター100万ボルト」に出会ったのです。

 

あまり知られていないことですが、サミーは自分が何者であるか、何者でありたいかということに情熱を持っていました。彼が咽頭癌と診断されたとき、医者から良い知らせと悪い知らせがありました。良い知らせは、すぐに手術をすれば90%の生存率があるということでした。一方、悪い知らせとは、もう二度と歌えなくなるということでした。

彼は、先に2つの新しい股関節にしたことで(注2)踊りを止めざるを得なかったので、声だけは失いたくありませんでした。そして、手術を受けずに癌に打ち勝とうとしました。 死の直前、彼は最愛の娘トレーシーの手から最初の孫であるもう一人のサミー・ジュニアを腕に抱きしめましたが、そのとき彼は、手術を受けなかった自分の決定を再考したかったことでしょう。 サミー・デイヴィス・ジュニアは命よりも自分のパフォーマンスを失いたくなかったのです。

(注2)人工股関節を入れたという意味で解釈しましたが、ネットにその情報は確認出来ませんでした。

 

私は彼の自伝「Yes, I can」と「Why me?」を、自分のパフォーマンスのバイブルのようにして読んだことがあります。 (バイブルと言うけど)何回位? 数え切れないほど読みました。 そこから山ほど学ぶことがあったからです。

サミーが 10 歳くらいで、ウィル・マスティン・トリオ(Will Mastin Trio)のメンバーだったときのことです。次のショーの準備、即ち、衣類のクリーニングや修繕の必要があるかなどをチェックしなければなりませんでした。靴は、自分の姿が映るほどピカピカに磨いたものでなければなりませんでした (この時からほんの数年の後、当時のスターたちは、衣装や小道具の準備を担当するパーソナル・アシスタントを雇う余裕ができました)。

小さなサミーがその準備を中断すると、ウィルは「続けなさい」と言いました。そこでサミーが、会場のお客は 10 人もいないことを指摘すると、マスティンははっきりと答えました。「会場に来ているお客様は、皆、同じ料金を払っている。その料金は、彼らが知っている最高のショーを見るに値するのだ。一人の観客の前であっても、一万人の前であっても、自分たちは等しく良いショーをしなければなりません!」  ―― サミーは再び靴を磨き始めました。

ダンス・スポーツ界においても、この話の重要性は容易に分かることでしょう。ここに私のベストフレンド、世界チャンピオンであるマーカス&カレン・ヒルトンMBEの素晴らしい例があります。二人はどのようなショー、どのようなレクチャーであっても、常に最高の服装をしていました! 彼らの例は、どの専門家にも当てはまる筈です。

 

サミーからの貴重なアドバイスをもう 1 つ紹介します。 彼は、「出演している時は、同時に二つの聴衆に向かって行っています。当然、メインの聴衆は私のミュージシャンと自分自身です。実際には、オーケストラのために行い、オーケストラと共に行い、そして、オーケストラと一緒に聴衆のために行います。曲の順番も毎晩変えています。その方が、聴衆と同じようにミュージシャンたちも刺激的になるはずですし、より注意を払うことができます。」

ダンス界の話ですが、私は聴衆側として、サミーのこの話と同じことを元世界チャンピオンのウィリアム・ピノとアレッサンドラ・ブチャレリで経験しました。ウィリアムはステップの順序を変更し、振り付けの方向などを毎回変えて踊っていました。それが可能だったのは、アレッサンドラが非常に高い資質と、ウィリアムのリードに即座に反応する能力を持っていたからです。カップルの中で生み出される刺激は自動的に観客に伝わったのですから、彼らは当時最も人気のあるカップルになったのです!

 

「聴衆の中の誰か特別な人を喜ばせたいと思って、その人に集中して行うのは大きな間違いです。もし私がそのようなことをしたら、自動的に残りの聴衆を失ってしまうことでしょう! したがって、意図的に誰かの気に入られようとしないでください。あなたが言わなければならないことや歌や踊りに集中すれば、人はそれを高く評価するでしょう。全員を喜ばせようとすれば、誰も喜ばすことはできないでしょう。それは妥協したことになりますから、自分さえ喜ばせなくなります!」

このことを知った瞬間から、この種のアドバイスは優先リストの一番上にくるようになりました。

 

「役者よ、踊り方を学びなさい。あなたの動作はより滑らかになるでしょう。ダンサーよ、歌を学びなさい。あなたの体はあらゆる動きの中で音楽を感じとることでしょう。歌手よ、演技を学びなさい。あなたの音楽解釈により大きな信頼性を持たせることでしょう!」  これが偉大なエンターテイナーの秘密なのです。彼らの多様性なのです! そして、そうした中で最高だった人は、間違いなくサミー・デイヴィス・ジュニアでした。

 


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