FL17 初恋は音楽 11.フォーメーション

投稿者: | 2023年2月3日

 ―― 公演終了後、ご年配の方を中心に多くの方が私たちの元に来て下さいました。 そして、私たちを抱きしめて泣きました。暑いせいか、半袖を着ている人が多かったです。そのため、彼らの腕に古い数字の入れ墨を見ることが出来ました。それは、ドイツの強制収容所で入れられたものでした。 ―― 

 

目次紹介

“Music Was My First Love”
初恋は音楽

11. フォーメーション
 The Formations 

 

20 歳の誕生日を迎えて間もなく、私は教師としての新しい道を歩み始めることになりますが、それまでの音楽教育と様々なアイディアが大きな助けとなりました。私はレジデンツ・ミュンスター(Residenz Munster)で、自分用のボールルーム・クラブとデュッセルドルフのRed-Whiteクラブでフォーメーションのコーチ契約をしました(Red-Whiteクラブでは、最初はラテンのみでしたが、後にボールルームのコーチにも)。

その時点までフォーメーションと何の関係もなかった私でしたが、少なくとも 16 人の若者とクラブが計上した音楽とコーチング用の5 桁の莫大な予算の使われ方に責任を負うようになりました。つまり、私は一種の「民主主義」でチームを率いらなければなりませんでしたので、フォーメーション構成に当たって、チームメンバーの好みを最優先事項にしたり、個人的な空想の遊び場にしたりすることは決して許されませんでした。聴衆と審査員の好みを考慮に入れる必要があったのです。それが、クラブに対するフォーメーション・コーチの責任です。聴衆にも人気があり、優勝する可能性があると信じる音楽メドレーを全責任持って編集した音楽が振り付けのベースとなります。

音楽が面白くて多様であればあるほど、振付家の遊び場は大きくなります。この点においては、前に書いたフレッド・アステアやジーン・ケリー達の方がずっと楽だったでしょう。彼らの場合、リハーサルで美しい振り付けを作り始めると、音楽のアレンジャーが振り付けに合わせてアレンジをします。アレンジャーは振付に合わせて音楽をアレンジするアーティストでした。いつ、どのような順番で行われたかということは、観客にはわからないようになっていました。

 

クラブに資金的な裏付けがあったことは私の励みとなりました。私は自分の空想やアイディアに従って音楽をまとめ、それをプロのアレンジャーに渡すと、アレンジャーは創造力を用いてシンプルなタイトルを特徴あるダンス音楽に書き換えるのです。アレンジに特殊効果を盛り込んだり、楽器の選択に面白みを持たせたりして、音楽の色を変えることもできます。そうした例をいくつか示しましょう。

 

このフォーメーション・コーチの仕事を通じて、私は非常に有名なアレンジャーと組むことになりました. ユーゴ・ストラッサーのサックス奏者です。彼はユーゴ・ストラッサー・サウンドを作り出したチームの一員で、音楽院でストリングス、合唱団、またはビッグバンドの編成方法を学んだ人です。彼のモットーは「存在しないものは何もない」で、それを忠実に守るには、あらゆる種類の音楽スタイルに対して大きな寛容性を必要としていました。 多様な音を知っているからこそ、タウバーの編曲はアイディアに満ちているのです。私は何度も挫折を味わいながら学び続けました。当時の私はレボックス社(Revox)のオープンリールを使って、自分の好きな曲のラフカットを作っていました。そして、指示表のようなものを作成しました。そこには、何小節をチャチャチャ、何小節をサンバにしたいかとか、どの部分にどのようなエフェクトをかけるか、あるいは、場合によっては使用する楽器もリストアップしたのです。

このコラボレーションから生まれた最初の傑作は、ユダヤの楽曲を集めたメドレーでした。イントロにはイスラエルの最も有名なフォークダンスであるオラ(Hora)を使いました。本書の最初の部分を覚えている人なら、それが何か分かるとことでしょう。そうです。 6歳の時にユダヤ音楽とユダヤの歴史への興味を目覚めさせたエスターとアビ・オファリムス(Esther and Abi Ofarims)のオラ(Hora)です。あの時からの輪が完成したのでした。

レコーディングでは合唱団にヘブライ語で歌って貰うためにあらゆる手を尽くしました。結果はまずまずでしたが、エルサレムでスタンディングオベーションを受けるような華やかさはありませんでした。そこで、オファリムスのオリジナル録音を、私のニーズに合った長さにカットすることにしました。イスラエル人ほどイスラエル音楽を感じられる人はいませんから。そしてフォーメーション音楽の主要部分は、有名な民謡ハバナギラ(Havah Nagilah)に決定しました。

 

 

 

演奏方法のアイディアとして、英国のアレンジャーであるスタンリー・ブラック(Stanley Black)による編曲を使用しました。スタンリー・ブラックは彼が大きな交響楽団で録音したタイトルをテーマごとにいくつかにまとめていました。彼の編曲には一種のペーソスがあり、大きなスタイルで編曲されており、「ハバナギラ」やイスラエルの国歌「ハティクバ(Hatikvah)」(希望という意味)のシンフォニックなアレンジの原案は、彼のレコード”Music of a people”で見つけたものです。これは、世界中のすべてのユダヤ人に忠誠を宣言するという私的な願いでした。

過去3000年の間にユダヤ人が経験しなければならなかったこと、特に、オーストリア系ドイツ人の狂人が国全体を扇動して殺害したそれほど遠くない過去について熱心に研究した結果、私は自分の意見を表明する気になったのです。多くのチーム メンバーは、そんな私の思いを汲んでアイディアを支持してくれました。 妻のヴェラはそれ以上でした。 彼女は私と同じようにこの考えに取り憑かれていたため、彼女がいないチームのパフォーマンスは不完全に見える程でした(それはヴェラがプロに転向した後でした)。

 

間違いなく、妻とその隣でこの振り付けを踊ったアストリッド・ボジッチ(Astrid Bozych)のインタラクティブな一体感は、言葉では言い表せないほどの幸運でした!  二人はほとんど目をつぶっていてもお互いの存在を感じ合って調和することができたので、他のレディースチームの素晴らしいお手本となりました。だからといって、他の女性たちが劣っていたという事では全くありません。 私はただ、その音楽の背後にある、今述べたような考えと精神的に同一化することについて話しをしているのです。真面目な話、その考えは、エスターとアビ・オファリムが歌う「オラ」を聴いた日から芽生え始めていました。 そして、忠誠の証として、私はイスラエルの国歌をルンバとサンバにアレンジし、ほとんどの子供たちが幼稚園ですでに習った曲、「ヘヴヌ・シャローム・アレジーム(Hevenu Shalom Alejchem)」の上に違和感がないように乗せるようにしたのです。

“Havah Nagilah” と “Hevenu Shalom Aleichem” のトラックと共に、聴衆に非常に人気のある 2 つの曲が既にありました。 第 3 部は、米国映画「エクソダス」のサウンドトラックのワーナー・タウバーのバージョンでした。興味深いことに、エスター・オファリムは、本名エスター・ライヒシュタットとして、その映画で初めて映画の役を演じました。ワーナー・タウバーと仕事をすることは、まさに夢の実現でした。

 

私は彼にラフカットをテープで送り、彼と電話で一度だけ話しました。 「ワーナー、『ベン・ハー』の映画サウンドトラックの新しいバージョンみたいな音楽にして下さい。」 彼「OK。あなたの要望は分かっています。」と返事をして、作業に入りました。そして、音楽の要所、要所に中東の雰囲気を入れてくれたのでした。私の考えでは、フォーメーション「イスラエル」は、今でも史上最高のフォーメーションと思っています。あのフォーメーション音楽が簡単に構築できたことには、永遠の事実が強調されています。それは、音楽と振付は互いに刺激し合うものでなければならないという事です。良い音楽であればあるほど、選択肢は広がります。何が何でも勝ちたいという欲望と情熱を持った16人の素晴らしい男女の「イスラエル」チームは、1993/1994年のシーズンでドイツ、ヨーロッパ、世界選手権を制覇しました。


(【追記 2022/02/08】1994 WM Latein-Formation の中に”Israel”を見つけました。)

 

私と「イスラエル」フォーメーション・チームにとっての最大の冒険は、間違いなく、イスラエルからの招待でした。プロフェッショナル・ダンス連盟の元イスラエル会長であり、私の良き友人であるシェミ・ペリー(Shemi Perry)は、テレビでスタヴァンゲル(ノルウェー)からの世界選手権での私たちの優勝を見て、すぐにユダヤ音楽に合わせて踊った私たちのチームを招待して下さいました! 資金面については、イスラエル連盟からの資金支援は不可能だったので、私たちは自費で賄わなければなりませんでした。 私の地方自治体に交渉するも、その年の予算がその年の半ばには既に使い切っていたため、私たちの支援はできませんでした. 当時、北ライン=ヴェストファーレン(North Rhine-Westphalia)州の総督であったヨハネス・ラウ(Johannes Rau)が旅費の半分を自腹で負担して下さいました。さらに、航空会社のアエロロイドが25%負担して下さったので、チームメンバーはイスラエルへの旅費として、一人200DMを支払うだけで済みました。

 

とても長い旅の末にテルアビブに到着しました。イスラエル旅行では、警備員がスーツケースを完全に開けて中身のチェックをします(しかし、前よりも綺麗にパックして戻してくれました!)。特に世界中でよく知られている私たちの歴史で、こうした行動を取られなければなければならないことは悲劇ではありませんか?  想像を絶します! しかし、私たちの誰もが認めることができましたのは、「ミッション・イスラエル」の重要性です。このイベントが、古い円形劇場で行われる約 50 組の異なるダンス・グループが参加するある種の競技会であることを誰も知りませんでした。 シェミ・ペリーは私たちの宿泊先をキブズに用意し、彼はそれを全額払ってくださいました。彼はイスラエルの同胞に、考え方や行動が異なる新しい世代のドイツ人がいることを知ってもらいたいと考えていました。 親愛なるシェミ、もう一度ありがとう!!

 

私たちは、円形劇場に入った35,000人の観客の前で、最初の公演を行いました。主賓として、私は芝生の上に座る必要はなく、キャンプ用椅子に座ることになりました。すべてが即興です。エフライム・キソン(Ephraim Kishon)の同胞風刺は、決して大げさではありませんでした。私たちがドイツからチームであると紹介されたとき、会場から肌にも感じられる呟きが聞こえてきました。単なる囁きが35千人分集まって、重々しいバックグラウンド・ノイズと化しました。私はこの夜、地獄への片道切符を持ち、爆弾を縛り付けた狂人が現れないことを祈りました。このようなテロがたくさんあるという事実が、私がこの素晴らしい国を再び訪れることを阻んでいることが、残念でなりません。チームがステージに登場したときは静けさの余りに、ネズミの忍び足さえ聞こえたかもしれません。そして、オラとハバナギラの音楽が始まりと、35,000人の観客は一緒に歌い、踊りしました。私たちの誰もこのような経験は初めてのことでした。私たちを招いて下さったホストの方々を深く考慮し、私はイスラエルの国歌であるハティクバの編曲をイスラエル民謡に変更しておいたのでした。イスラエル国歌を特に使用するという私たちの当初の動機を、誰もが理解したわけではなかったでしょう。私たちは誰一人、苛立たせたり、挑発したりしたくはありませんでした。

(註)エフライム キション(1924 8 23 – 2005 1 29 ) :ハンガリー生まれのイスラエルの作家、劇作家、脚本家、そしてアカデミー賞にノミネートされた映画監督。彼はイスラエルで最も広く読まれている現代の風刺作家の 1 人であり、ドイツ語圏の国でも特に人気がありました。(ウィキペディアより)

 

公演終了後、ご年配の方を中心に多くの方が私たちの元に来て下さいました。 そして、私たちを抱きしめて泣きました。暑いせいか、半袖を着ている人が多かったです。そのため、彼らの腕に古い数字の入れ墨を見ることが出来ました。それは、ドイツの強制収容所で入れられたものでした。全身鳥肌が立ちました。

人生経験という点では、イスラエルでのパフォーマンスは私の人生中の絶対的なハイライトでした。私たちを援助して下さったすべての人に心からの感謝を申し上げます!

ドイツ・ダンススポーツ連盟の機関誌『TANZSPIE GEL』にサビーネ・ヘイ(Sabine Hey)による死海文書のような聖書的な表現で書かれた私たちの旅行記が掲載されました。とてもよくできた記事でしたので、ヘイ夫人の許可を得て、ここに紹介させていただくことにします。

 


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