FL08 初恋は音楽 6. 音楽、そして、ビッグバンド

投稿者: | 2022年12月2日

繰り広げられるビッグバンドの話はとても興味深いです。そうしたバンドのLPを私も幾つか持っているので、LP画像を挿入してみました。

 

目次紹介

“Music Was My First Love”
初恋は音楽

 

6. 音楽、そして、ビッグバンド
 Music and the Big Bands 

 私が最終的に自分の自由な時間をダンスに捧げる決心をした当時は今とは全く違っていました。競技会を比較すると、あの頃は殆どいつでもライブ演奏だったという根本的な違いが挙げられます。ライブ演奏はCDと違い、いつでも素晴らしい雰囲気を提供してくれます。勿論、バンドが変われば音楽の良し悪しにも違いが出ます。ある特別な夜などに、私たちはユーゴ・ストラッサー・オーケストラ(Hugo Strasser and his Orchestra)の演奏で踊ることが許されることがありました。もともとユーゴ・ストラッサーのために作られたオーケストレーションをコンボからビッグバンドまで、さまざまなダンス・バンドが使用していました。彼らは皆、それを真似することでユーゴ・ストラッサー楽団が創り出すような、競技選手が快適に感じる音に近づけると信じていました。それはごく自然な考え方ではありましたが、正しくありませんでした。なぜなら、彼らはユーゴ・ストラッサー楽団の音楽がソリスト・ストラッサーのクラリネッのために特別に創り出されていた点を見落としていたからです。

あの独特のストラッサー・サウンドを創り出すために二人のトップ・アレンジャーがいたのです。その二人とはワーナー・タウバー(Werner Tauber)とハンス・エーアリンガー(Hans Ehrlinge)で、彼らは他の多くのビッグバンドが使用していたのと同じ楽器を使用して、ソリストのユーゴ・ストラッサーのクラリネットを深く組み込んで、新しいサウンドを創り出したのでした。ですから、ユーゴ・ストラッサー楽団の音楽を聴いた人は誰でも、他のクラリネットの音と全然違うと言い当ててしまうことができるのです。ミュージシャンなら誰でも、特にソリストともなれば、その楽器で奏でる音楽にひとつの間違いもしないものです。平均的な観衆でさえ、そのプロが何を知っているかと言う事を見分けることができます。

クラリネットに関していえば、私のお好みのベニー・グッドマン(Benny Goodman)、ユーゴ・ストラッサー、アッカー・ビルク(Acker Bilk)など他にもたくさんいますが、彼らは皆、同じ音符を読み、同じ原則に従って演奏していますが、出てくる音には非常に大きな違いがあります。そうしたソロ部のアレンジを掘り下げていくほどに、その演奏家独特の音になって行きます。

 

ストリクト・テンポのダンス音楽が全盛だったときには、ボールルーム・ダンス発祥の地、英国には数々のダンス・オーケストラがありました。その先例を開いたのが、初期のボールルームの世界チャンピオンだったビクター・シルベスター(Victor Sylvester)です。彼は当時、ダンス練習に使えるストリクト・テンポのダンス・レコードがどこにもないことに苛立ちを覚え、自らオーケストラを結成してしまったのでした。1930年代にはじまり、60年代、70年代にかけての大英帝国の中は、ビクター・シルベスター・オーケストラ(Victor Sylvester and his Orchestra)の独壇場のような物でした。余りにも有名になったので、まず、ラジオで専用の番組を持ち、その後、TVでレギュラー番組を持つようになりました。それが「カム・ダンシング(Come Dancing)」です。

そのカム・ダンシングには世界的なカップルやフォーメーション・チームがゲストとして招かれました。また、その時代最高の女性ダンサーたちはビクター・シルベスターと組んでステップの「テレビ・レッスン」を行ないました。やがて彼は、自分が年老いてしまったと感じると、息子のビクター・ジュニアにオーケストラを渡しました。ジュニアは彼が亡くなる1999年10月15日まで、そのオーケストラを率いたのでした。

 

ジョー・ロス(Joe Loss / 22.6.1909 – 6.6.1990)はビッグバンドのキングと称されました。彼は、率いるオーケストラでダンス音楽をコンスタントに出していた一人です。発売になったレコードは、勿論、大きな競技会で使用されました。私は1988年のブラックプールで開催されたヨーロッパ・プロフェッショナル選手権で踊ったことがあります。このとき、既に引退していましたジョー・ロスが特別に呼び戻されて、競技選手たちに特別な事をしました。引退した彼が戻ってきたこと自体が既に、何か特別な事でしたが、第1ラウンドが始まると、選手たちは皆、演奏が長すぎるのではないかと秘かに疑い始めたのです。

国際的な競技会におけるルールとして、音楽に関しては二つの変わらぬ決まりがあります。ひとつは、それぞれのダンスの演奏テンポです。テンポが違うと、ステップを完璧に踊ることを難しくしたり、逆に容易にしたりといろいろ変わってしまいます。こうしたテンポは世界中が知っており、それを守って演奏されます。

ミュージシャンならばテンポはメトロノームを使って計るのが普通ですが、ダンスにおけるテンポは1分間に演奏される小節数で数えられます。このメトロノームはベートーベンの時代からあって、設定した速さに合わせて振り子が振れながら、音が出る仕組みになっています。よって、ワルツのテンポをメトロノームでセットする場合、ワルツの標準テンポは29小節ですから、それにワルツの3拍子の3を掛けると87、即ちメトロノームの目盛りを87にセットしなくてはなりません。メトロノームはドイツのヨハン・ネポムク・メルツェル(Johann Nepomuk Maizel)が考案し、1拍ごとにカチカチと音が出る仕掛けでしたが、現代のメトロノームは音の代わりに光が出るようになっています。

多くの競技会主催者はCDに記載されたテンポを信じ切った所がありますが、実際には、正しくないことが結構あります。さて、二つ目の世界的なルールは音楽の長さです。この長さの中で競技選手たちは踊っています。

そして、前述の1988年ヨーロッパ・プロフェッショナル選手権のことですが、ジョー・ロスは、この選手権の夜の部のためにオーケストレーションを特別に全部書き直し、それを完全に演奏する計画でいました。そのことは主催者に知らせてはありましたが、1曲が3分から3分半あることを告げるのを忘れていました。つまり、国際ルールの最長2分のルールを完全に超えてしまっていたのです。競技選手たちは皆、各ダンスの最後の1/3は気絶しそうになりました。いつも競技選手たちはできるだけ最後まで限りを尽くして音楽を楽しむようにしていますが、流石にあの特別な夜だけは無理でした。

 

他にも素晴らしいビッグバンドがありました。幾つかあげると、例えばレイ・マクヴェイ(Ray McVay)、ビリー・テネント(Billy Ternent)、アンディ・ロス(Andy Ross)、それにチャールズ・バーロー(Charles Barlow)などがいました。バーローは往年の偉大なバンドリーダーの一人で、ブラックプールの全英選手権では素晴らしい雰囲気を作り出して貢献していました。所で、バーロー自身は素晴らしいクラリネット奏者だったのですよ。彼の演奏も他のクラリネット奏者と違うのが分かることでしょう。

 

1980年代初め、私はブラックプールで行われるスタンダード・フォーメーションの音楽執行製作者でした。曲はチャールズ・バーロー・オーケストラが演奏しました。彼のスタジオはマンチェスター(Manchester)の隣、ストックポート(Stockport)にありましたので、一日早くイギリスに飛んで、バーロー夫妻宅のゲストルームに泊めて頂きました。信じられないでしょうが、この有名なバンドリーダーご自身が、朝のお茶を私のベッドまで運んでくださいました。そして、沢山のお話を通し、あの伝説的なダンスの祭典で8日間休みなく演奏することが、オーケストラにとって、どれほど大変な仕事であるか、それを少し深く理解することができました。チャールズ・バーロー・オーケストラでは、次世代の人も重要な役割を果たしています。彼の2人の息子さんたちが、プロとして演奏しているのです。

 

ある競技会では、世界的に有名なベネズエラのエドモンド・ロス(Edmundo Ros)がラテン部門を何度か担当したことがありますが、これが、参加者の間で大きな議論となりました。ロスのパーカッションの使い方は非常にダンスの特徴を捉えていたので、競技選手の半数はぞくぞくしたものです。しかし、その素晴らしい音楽の半面、彼はさほどダンス音楽のテンポを守らずに速すぎたりしたため、残りの半数の競技選手には不人気でした。

ロスはラテン・アメリカンのクラブを開きました。人々はそこで食事をしながら、エドモンド・ロスの音楽で踊って楽しむことができました。夜の部では、当時のプロフェッショナル・世界チャンピオンだったウォルター・レアードとロレインがショーをしたこともあります。そのロレインについては、もう少し後で書くことにしましょう。

 

ドイツでは最初にマックス・グレガー(Max Greger)、ベラ・サンダース(Bela Sanders)、そしてユーゴ・ストラッサーが自身のオーケストラを率いて現れ、後にジャズ・ピアニストのギュンター・ノリス(Gunter Noris)が加わりました。ギュンター・ノリスは陸軍ビッグバンドを率いていましたが、ストリクト・テンポのダンス音楽に軸足を移したのでした。彼らに加え、幾つかのトップクラスのバンドが競技会に適したダンス音楽を適宜リリースしました。エルヴィン・レーンとSWR(Erwin Lehn and the Southwest Radio Band)、ヴィリー・ベーキング(Willy Berking)、クルト・エーデルハーゲン(Kurt Edeihagen)、クラウディウス・アルツナー(Claudius Alzner)、その他多数が記録に残っています。かつての世界チャンピオンだったカール・ブロイアー(Karl Breuer)はウィリー・ベーキングともマックス・グレガーとも一緒に仕事をして、素晴らしいダンス・レコードを出しています。

 

最も有名なダンス・オーケストラではないにしても、世界的に有名なジェームズ・ラスト(James Last)がいますが、彼はきちんとした競技会向けのレコードは一枚もリリースしていません。もともとブレーメン出身の彼の名はジェームズではなくハンス(Hans)です。ジェームズ・ラストは、さまざまなアルバムで、ショーやフォーメーションのカットミュージックに最適なシングルタイトルを発表していました。彼のこうしたアレンジは、時に、規模の小さいバンドによって競技会で演奏されていました。ジェームズ・ラストは自身のオーケストラのために一点の曇りのない完璧な音を創り出し、それは後に、「ハッピー・サウンド」と称されました。彼は不朽の名作と現代的な音楽を絶妙に組み合わせてメドレーにしました。それが絶大な人気を得、ダンスパーティで使われたり、歌われたり、そして、特定タイトルのレコードに収録されたりしました。

ジェームズ・ラストはパーティー用音楽からクリスマスのダンス音楽まで、あらゆる方向に向けて音楽のアレンジをしました。あるとき彼は、クラッシック音楽を軽快なリズムで、ストリングスとビッグバンド用にアレンジしました。クラッシックを毛嫌いしている人たちは、そうしてできたシリーズ「Classics up to date」を何度も聞いているうちにクラッシックの原曲にも興味を持ち始めました。私の父はクラッシック音楽に手を加えるのは冒涜であると考える人でしたが、ジェームズ・ラストのクラッシック・レコードは大好きでした。

 

話は少しそれますが、今日の流れと言うか逆流と言うか、多くの競技選手たちは色んな先生に習いにいく傾向があります。必ずしも、その先生が審査員にならないかもしれないのに。そうしたやり方は、私の財布の予算が許しませんでした。例え経済状態が許したとしても、他の先生たちの所へ行って視野を広げる前に、私はきっと、一人の先生の哲学と理論を十分に理解するよう努めたことでしょう。ですから、私には数名の先生やコーチャーから構成される小さなチームがあっただけで、彼らからダンスに対する物の見方を教わりました。各人どなたも特別なものを持っていたので、一人一人から教わったことを全部合わせると、それは、ダンスはどうあるべきかという一つの完全な絵となって私の前に現れました。

そうしたチームの中にいた一人が、あの偉大なカール・ブロイアーで、当時あったTVチャンネルでダンス選手権を生放送していたこともあって、1960年代にはテレビスターになっていました。彼はアマチュアとしての競技歴しかありませんが、引退後は自分のTV番組を持っていて教えていました。勿論ダンスです。その彼が私にアドバイスしてくれものに、大きな競技会の前に自分が出場する時、どのオーケストラ演奏するかを事前に調べておきなさい、というものでした。

その時から直ぐに、そして、それからもずっと私はそのアドバイスを守りました。どのオーケストラが演奏するのか、そして、そのリーダーとコンタクトするようにしたのです。これは、昔も今もルール違反ではありません。それにしても、こうした事をやろうとする人は誰ひとりいませんでしたが。もしかすると、殆どのダンサーの考えの中には音楽は大きな比重を占めていないのかも知れません。しかしアドバイスを守った私は、だんだん多くの、そして、より頻繁にバンドリーダーたちと会う機会が増え、私はそれぞれのバンドのレパートリーの中から自分の好みを選曲し、テンポに充分注意を払うようにしました。

一例を挙げるとすると、あの有名なユーゴ・ストラッサーが最初に出てきます。1983年ジャーマン・クローズド・ボールルーム選手権が開かれる1週間前のことでした。私はユーゴ・ストラッサーにお会いし、翌週行われる選手権の決勝で演奏する曲目は決まっているのかと尋ねました。すると彼は、まだ決めていないが私に何が良いと思うかと聞いてきたのです。当然、そのとき私は自分の好きな曲とテンポを記したメモを持って行っていましたので、それを見せると、彼はそれを受け取りました。そして1週間後には、私が紙に書いたそのままを演奏してくれたのでした。フォックストロットでの私の願いは、作曲ジョゼフ・コズマ(Joseph Cosma)、ハンス・エーアリンガー(Hans Ehrlinger)編曲の「枯葉」でした。


(ユーチューブより)

それからというもの、信じられないでしょうが、ユーゴ・ストラッサー・オーケストラは、競技会であれショーであれ、私が出場する所では必ずフォックストロットの枯葉を演奏してくれたのでした。しかも、私の好きな特別なテンポで。ダンス音楽としてのフォックストロットのテンポは1分間に28~30小節と規定されていますが、私は25小節が好きでした。そのテンポでバランスよく踊るには、かなり集中した繰り返しの練習が求められるので、それができると、他の選手たちよりもある種の優位性を示すことができるからです。私が49歳になってから、なぜ、元ドイツ・チャンピオンで、あの滅茶苦茶凄いナターシャ・カラベイ(Natascha Karabey)とショーをしようと思ったのか、その理由もそこにあります。

トップクラスの競技選手として、49歳はかなり年寄りになります。2009年ジャーマン・プロフェッショナル・ラテン選手権はデュッセルドルフのマリティムホテル(Maritim Hotel)で開催されました。この時、87歳になろうとするユーゴ・ストラッサーは競技選手、そして、観客のために指揮を執りました。競技会の主催者は私の親友のマティウス・フローンホフ(Matbias Fronhoff)だったのですが、彼がプログラムに何かもう一つ加えたがっているのを知り、私は無料でやらせてもらいたいと申し出ました。私とナターシャは、すでに、ブラックプールでのレクチャーに備えて練習をしていましたので、あの「枯葉」の曲を含むユーゴ・ストラッサーの生演奏で踊れるのであれば、それを見逃す手はなかったからです。

 

私はチャールズ・バーロウ(Charles Barlow)、アービン・ティズウェル(Irven Tidswell)、そしてギュンター・ノリス(Gunter Noris)たちとも、ユーゴ・ストラッサーと同じような良い関係をもっていました。因みに、アービン・ティズウェルはチャールズ・バーロウの後釜としてブラックプールで指揮を執り、そのブラックプール・オープンで私は優勝しました。

 

ギュンター・ノリスと言えばある話が思い浮かびます。そしてそれは、この章のまとめとなるものです。1988年春、私たちはノイス(Neuss)で開催されたドイツ・プロフェッショナル・ラテン選手権でラテン最後の踊りをしました。その時の演奏がギュンター・ノリス楽団でした。

私たちは1ポイントの差で決勝に進むことができませんでしたが、主催者のアーンスト・フェルン(Ernst Fern)から、授賞式まで競技会の衣装のまま着替えずにいるように言われました。何かおかしいと思いました。やがて授賞式が始まり、6位から逆順で表彰が始まりました。そこには当然、私たちはいません。ファイナリストが全員フロアに揃ったところで、ギュンター・ノリスがマイクを取って観客に話し始めました。

「紳士淑女の皆さん、これがジャッジたちによる審査結果でした。皆さんは気づかれなかったでしょうが、実は私とバンドメンバーも同時に審査していたのです。そして音楽家の視点から、だれが音楽を最高に表現していたかを決めたいと思っていました。つまり、私たちから見て、今夜、一番音楽性溢れる踊りをしたのはどのカップルだったか、という事です。そして、バンドメンバー全員一致の結果として、ギュンター・ノリス楽団特別賞を授与します。そのカップルは…!」

 

それがどれほどの価値あるものか、言い表すことができません。中立の立場のミュージシャンたちに認められたのですから。しかも私がこの上なく尊敬しているミュージシャンたちから!バンドの皆さんは私たちが彼らの音楽を一番良く表現したと感じたのです。こうして私は、この最後のラテンで、自分にとってのゴールに到達することができたのでした。それは、私にとって、観衆と繋がる最も重要な部分でもありました。

ユーゴ・ストラッサーの後、ギュンター・ノリスはガラ(Gala)大会で最も頻繁に出演しました。私たちは1度ならず、特別に短くした曲のメドレーでショーを踊ったことがありますし、当時人気のあったダブル・ショーを親友の元ドイツ・ラテン・チャンピオンだったボン出身のラルフ・レピーネ&リディア・ワイザー(Ralf Lepehne & Lydia Weisser)と行ったこともあります。その時の音楽は古いレボックス(Revox)製のオープン・リールで編集しました。当時ガラで演奏していた色んなバンドは私たちの編集した曲を聴いていたわけですが、ギュンター・ノリスは、観衆のムードを最高に高める最も効果的な選曲と曲順の編集であると、いつも誉めてくださいました。本当に、音楽とビッグバンドについては、こうしたことがあったのです。

 

ショーをするカップルは自分たちの曲をテープに録って持ち歩いていました。それは踊りの技術的な事の次に大切な問題でしたから、慎重に、そして、最適の音楽を選んでいたのです。通常観る側は、そうして作られた音楽のどの部分が笑わせたり、夢見させたり、泣かたりする効果を出しているという事には、関心を示さないものです。ただの「消費」なのです。しかし、世界的に名のあるバンドのリーダーは、優れたショーのための音楽の要素を知っていますし、見聞きしていますので、ギュンター・ノリスのような素晴らしい音楽家からのお褒めの言葉は私の自惚れを増長させ、その後の仕事も増やしてしまったのです。

 


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