FL26 初恋は音楽 13-7. ライブコンサート/マイケル・ジャクソン

投稿者: | 2023年4月7日

オリバーには出来上がった本のイメージの中で「何を書きたいか」「何を残すべきか」が決まっていても、死期を感じていた彼は、「どこまで書けるか」と、焦りとの闘いもしていたことでしょう。

 

目次紹介

“Music Was My First Love”
初恋は音楽

 

13-7. ライブコンサート/マイケル・ジャクソン
  Live in Concert 

 

MICHAEL JACKSON (29.8.1958 – 25.6.2009)

 

1988 年、友人のラルフ・レピーネ(Ralf Lepehne)と私は、お互いのパートナーと共に、2 組による約 20 分間のダブル・ショーの企画を思いつきました。つまり、ドイツ・プロ・ボールルーム・チャンピオンとドイツ・プロ・ラテン・チャンピオンが一緒にショーを行うのですが、通常の形のボールルームとラテンの披露ではありません。そこで私たちはまず、使えそうなすべての曲のリストアップから始めました。ラルフは社交ダンスの学校を持っていて、見る側の好みを良く知っていました。例えば人気のあるマイケル・ジャクソンの曲のようなものを使うべきというように。

当時の私が好んで聴く曲のリストにマイケル・ジャクソン含はまれておらず、彼の有名な曲さえ挙げることはできませんでした。(一体私は1983年から1988年の間、何をしていたのだろうと自問することがありますが、おそらくボールルームのキャリアに精出していたのでしょう。)偶然にもその直後、ゲルゼンキルヒェン(Gelsenkirchen)のパークシュタディオン(Parkstadion)でマイケル・ジャクソンがのコンサートがあることを知りました。最新アルバム「BAD」のリリース直後でしたので、それを、私たちのショーのタイトル曲にしました。

 

スタジアム内は立見席のみでしたが、私たちは何枚かチケットを購入しました。繰り返しになりますが、それまで、マイケル・ジャクソンの作品を見たことがないということが、どれほど例外的だったか想像もできませんでした。このコンサートが行われたのは、彼の黒い皮膚色素の一部が淡い白に変わるという皮膚病「白斑」の発生前でした。コンサートは当然の如く「Wanna be startin’ something」でスタートしました。ステージ上には、モダン・ダンスやジャズ・ダンスの訓練をしっかり受けたと思われる約8人の黒人ダンサーがいたので、どれがマイケル・ジャクソンだろうと捜していると、突然油圧リフトを使って9人目のダンサーがステージに現れました。やっと分かりました。それがマイケル・ジャクソンだったのです!

 

ダンサー全員、振り付けを完璧にこなしていましたが、1人だけ違っていました。なぜなら彼は振り付けそのものだったのです。私の顎は外れかけました。ジャクソンはマイクを使って話し出しました。そうすることは、珍しい光景でした。彼の声は話すというより囁きに近いものでした。そして、ソプラノの声で聴衆に向かって「みんな大好きだよ!」と囁いたのです。次の曲が始まるや、彼の完全なる変身を目の当たりにしました! 青虫が蝶になったのです! マイケル・ジャクソンは内面のすべてを一つに結びつけました。

 

彼は傑出した歌手であり、独自のスタイルを持っています。他に類を見ない音楽性が彼を唯一無二にしていましたが、楽譜を読むことができなかったので、自分が作った曲を口ずさんでカセットテープに吹き込み、それをプロのアレンジャーに渡していました。繊細で積極的で、叙情的でリズミカルな彼に、私は完璧にやられました。

彼のステージで上での強い存在感とエネルギーに感染してしまい、もう2回、ケルンとフランクフルトでこの天才の音楽とダンスを見ました。フランクフルトのコンサートには、兄のウルフガングと彼の妻のベルンハルダ(Bernharda)、そして当時まだ小さかった娘のデニース(Denise)が一緒でした。姪のデニースは始まって間もなく気持ちが悪くなり、母親は彼女を連れてサッカースタジアム脇の日陰に移動しました。きっと暑さと人の多さに当たったのでしょう。兄も私も分からなかったのは、腕を振っている十代の若者の群れの中に、どうして自分たち中年男がいたのかということでした!

 

マイケル・ジャクソンの子供時代については、たくさんの「報道」がありました。シナトラの時と同じように、マスコミは恥じることなく雑誌を売ることに必死でした。マスコミは、公の場での行動でその人を判断してはいけないと言いますが、二人のように卓越したアーティストの個性をより良く知るには、彼らの音楽や歌を聴いたりダンスを見たりすべきです。彼のコンサートに行ったことのある人なら誰でも、マイケル・ジャクソンが決して子供たちに危害を加えなかったことを知っている、いや、感じたはずです。

彼は子供の頃、自分で作り出した子供の世界に籠っていました。そのため、生涯、いろいろな面で子供のままだったのです。彼はネバーランド(大人になりたくないピーターパンが住んでいた土地)を作り、自分だけの動物園とテーマパークで生活するようになりました。彼はピーターパンそのものであり、迷子のピーターパンたちと一緒にいるときだけ幸せを感じました。

クレイジー? そうかもしれません。ハチャメチャ? 確かに。でも、彼が、良い音楽を愛するすべての人に、実に多くのものを与えたことに議論の余地はありません。私はマイケル・ジャクソンのコンサートを生で体験できたことをとても幸せに思っています。そして、他の私のアイドル達と同様、彼の死には涙をこらえることができませんでした!

 


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