ある日、クラブの副会長がオリバーの手にそっとお金を握らせてきました。その理由は何だったのでしょう?
【目次紹介】
“Music Was My First Love”
初恋は音楽
5. 問題のない職業なんてないのさ
No Career Without problems
より頻繁に競技会に出るには、ある意味、エリート主義的なこのスポーツの世界のルールと慣習に従わなくてはなりませんでした。ここで私が使う「エリート」には否定的な意味合いも批判的な意味合いも全くありません。
競技会から抱くイメージとして、カップルの姿も、競技会全体の洗練された感じも、まるでハリウッドの小さな夢そのものです。ドレスコードは昔も今もエレガントさが求められますし、競技会はスポーツホールで行うよりも、そして、例えホールに花を飾ったとしても、本物のボールルームには敵いません。
ですから、私にはそれにふさわしい衣装と、安物ではない特別なシューズが必要でした。後に、それなりにお金のかかる個人レッスンも必要になってきましたが、両親にはそれだけの経済的余裕はありませんでした。そんなある日、私が通っていたクラブの副会長だったロルフ・マルシュナー(Rolf Marschner)氏が私の手にそっと60DMを握らせてきたのでした。クラブで一緒だった男の子の母親がキャットスーツを作っていたのですが、彼が下さったお金は、生地代込みで作って貰う時の費用でした。この上下繋がったキャットスースは、あのウルフガング・オピッツ氏がアイススケートをしている人たちからヒントを得てラテン・ダンスに取り入れたものです。それまでのラテンではタキシードを着用していましたが、キャットスーツのお陰で、遥かに動きやすくなりました。もしあの時、マルシュナー氏が救いの手がなければ、私のダンスはあそこで終わっていたに違いありません。
原書の中の写真を持ってきました。
(左上)ドイツのフォークソングを練習する母、17歳時。
(右上)記憶に残る父。ベートーベンの頭を叩いています。
(左下)いつも本が好きでした。
(右下)既に足の練習を始めています。
殆どの家庭も同じと思いますが、私の母も、家庭内の日常の細々したことに対する決定権を握っていました。彼女にはやることがあり過ぎるくらいにありましたが、私の学業と余暇の過ごし方のバランスが取れているかと、私を注意深く見守っていました。そして、私の時間が段々とダンスに割かれるようになってきたのを見て、彼女はそれを正さなくてはならないと考えましたが、そこに父が口をはさんだのです。
父はダンスに関する限り私の好きなようにさせてあげるのが良いと考えたのでした。そして、練習のためであれ、あるいは、トップクラスのカップル達の練習を見学しているにしても、ホールに遅くまでいても許してやろうじゃないかと。
両親は私のダンスに金銭的支援をすることはできませんでしたが、それ以上に大切な事をしてくれました。それは二人の文句なしの愛でした。また、二人常に正しい判断をしてくれたのは、私たち兄弟にとって幸運なことでした。
両親は私を100%サポートしてくれました。そして、私が望むものになることを可能にしてくれました。
4. どこからはじめよう? ⬅ ➡ 6. 音楽、そして、ビッグバンド