G117 鹿鳴館の踊り

投稿者: | 2023年9月11日

 

NHKの朝ドラ「らんまん」で鹿鳴館のシーンがあったようです。私はドラマを見ていないのですが、以前、鹿鳴館の踊りや女性の履物について調べたことがあったので、記録に残します。

 

1.鹿鳴館で踊られたダンスの種類

踊られていたのは下記のダンスと思われます。当時のダンスを再現した動画にリンクします。

 カドリード/カドリール (https://youtu.be/xLvt-Tss_mU

  1. コチロン(https://youtu.be/ElptopGToUk
  2. ランサーズ (https://youtu.be/Cj0C_V4Utrk
  3. ワルツ (https://youtu.be/fXqre5Egnmo
  4. ポルカ (https://youtu.be/ajxfQk_zbjM
  5. ショティッシュ (https://youtu.be/EMPuiaRjJ70
  6. マズルカ (https://youtu.be/tR3oOmvx5ew
  7. ギャロップ (https://youtu.be/idSvyeWQMhg
  8. ポロネーズ (https://youtu.be/o3e1OH1BpjA

 

出典1-1学校における舞踏教育と生活文化としての舞踏の変遷」(野田寿美子/埼玉大学教育学部保健体育講座PDFより)

1883年 (明治16年)に欧化主義政策によって『鹿鳴館』が建設 され、実際の舞踏の技術向上を目指す 『舞踏会』が設立され『貴婦人紳士凡そ七十余名』で組織 され、アメリカ留学から帰国した山川捨松 も婦人の指導にあたった。練習した舞踏は以下のようであった。

カドリード、コチロン、ランサース、ワルツ、ポルカ、ショティッシュ、マズルカ、ギャロップ、ポロネーズ

これらの舞踏 (社交 ダンス)は東京女学館、学習院、女子師範学校等の女学校 の教科や特別学科として取り上げられ新聞でも報じられた。

 

 

 

出典1-2「ジャズで踊って」(瀬川晶久/サイマル出版会)

芥川竜之介の短編小説『舞踏会』(大正九年一月刊)は、こうした文章ではじまる。鹿鳴館の舞踏会の豪華ではなやかな、 文明開化に陶酔する人びとや、会場のロマンチックな雰囲気を描き、やがて「異様なアクセントを帯びた日本語」で、見知らぬフランスの海軍将校から、ダンスを申し込まれる。「『美しく青きダニュウヴ』のヴァルス」を踊った相手の将校は、頬の日に焼けた、目鼻立ちの鮮やかな、濃い口髭のある男であった。 二人はさらに、ポルカやマズルカを踊ったり…、(P83)


三島由紀夫の戯曲『鹿鳴館』も、舞踏会のシーンをビビッドに描いており、上演に際してはナマの弦楽合奏団を使用して、ダンスのシーンを効果あらしめている。 (中略)

 

日本の社交ダンスの前史ともいうべき鹿鳴館ダンスは、その後帝国ホテルに移って、明治末年まで行なわれたが、やがていつのまにか消えてしまった。そのダンスは、ヨーロッパのクラシック音楽の伝統による舞曲を伴奏にしたカドリール、コティーヨン、ランサ、ギャロップ、ワルツなどであったことはいうをまたない。(P 84)

 

2.女性はヒールを履いていたか?

下の記述を見る限り女性はヒールを履いていなかったようです。

 

出典2.「ジャズで踊って」(瀬川晶久/サイマル出版会)

大正六年ごろ、平岡権八郎と夫人静子が欧州漫遊から帰り、平岡広高とともに鶴見・花月園の丘上にホールをつくった。静子はふつうの草履では幅が広くてダンスに不便だというので、フェルトを重ねて靴底の形に切り、これに緒をつけたのちの「ダンス草履」を発案して、ホールに来る婦人にすすめたものであった。(P85)

 

 

3.踊れる人がいなかった?

出典3.「日本人と社交ダンス」(永井良和著/晶文社/P23))

この夜の舞踏会をはじめ、1883年以前に記録された夜会で実際に踊ったのはほとんどが外国人である。11月28日の晩に音楽にあわせてステップを踏んだ日本人女性は、留学経験のある大山 (山川) 捨松、津田梅子、永井繁子ほか数名であったと推測されている。 男子で踊れる者はイタリア帰りの鍋島直大など数えるほどで、ホストをつとめる井上馨でさえ外国人のダンスを見るだけという有様だった。

 

4.若い女性が少なかったかもしれない

さて、調子に乗った (笑) 明治の高官たちは、その後もダンス三昧の日々。 数年もたつとものすごくダンスが上手になったそうで、これには来日したイギリス人がビックリしています。そのイギリス人、日本のダンス文化にこんなしょうもない文句を付けています。「日本の舞踏会には老婦人が多すぎる! ヨーロッパでは舞踏は若い婦人しかしないのに!」(郵便報知、 明治18年7月12日)

出典4.ダンス王国・鹿鳴館の誕生

 

 

5.招待国

鹿鳴館は1883年(明治16年)に建設され、1887年(明治20年)に終わりを告げましたが、鹿鳴館外交の晩餐舞踏会に招待された外交官は12か国でした。

  1. アメリカ
  2. イギリス
  3. フランス
  4. ポルトガル
  5. イタリア
  6. ドイツ
  7. オランダ
  8. スペイン
  9. デンマーク
  10. ベルギー
  11. ロシア
  12. ペルー

出典5.”The Ballroom History ボールルームの変遷史 1789 ~2012” (Tokyo International Associates)
*非売品の個人資料。作成者:谷 勲氏

 

せっかくなので調べたことを記録に残しました。

ハッピー・ダンシング!