G075 ブラックプールの歴史

投稿者: | 2020年12月3日

かつて作成した資料を見つけましたので紹介します。

 

ブラックプール・ダンス・フェスティバルの歴史
(ブラックプールの公式サイトに紹介されている歴史の一部を翻訳しました)

 

 

ブラックプール・ダンス・フェスティバルのアイディアはウィンター・ガーデン(Winder Gardens) の音楽監督だったハリー・ウッド氏 (Mr. Harry Wood) 、または、ブラックプールで音楽出版をしていたシャープルズ&サン株式会社 (Sharples & Son Ltd.) のネルソン・シャープルズ氏 (Mr. Nelson Sharples) が始めたと考えられています。

 

第1回は1920年、イースター(復活祭)の時にウィンター・ガーデン内のエンプレス・ボールルームで開催されました。当時、英国スタイルのモダン・ボールルームやラテン・アメリカン・ダンスはまだ現れておらず、シークエンス・ダンスのワルツ、ツー・ステップ、フォクストロットの3競技だけで、1日に1競技が行われ、4日目夜に、その中から優勝者が選ばれ、シャープル・チャレンジ賞が授与されました。

 

1927年はウィンター・ガーデンの運営が変わった事により開催されませんでしたが、1929年には復活し、イギリス北部プロ&アマチュア選手権の他、アマチュア・ベレータ、ベテランズ・ワルツ、そしてオリジナル・シークエンス・ダンス競技会などが行われました。この頃、人々は台頭してきた英国スタイルのダンスに興味を持ち始め、1931年に新たに行われた英国プロ&アマチュア選手権は、「北部のダンス」というイメージを払拭したのでした。このアマチュア選手権では、全国約40地区で250の予選が行われ、そこで勝ち抜いてきた者達がブラックプールの決勝に出られる権利を得たのでした。

 

1937年にブラックプールで始まったスケーティングシステムは、現在世界中で使われています。

 

大会は徐々に盛大になり、1953年には北部イギリス・アマチュア&プロ選手権、ボールルーム・フォーメーション・ダンス競技会、全英アマチュア&プロボールルーム選手権、加えて、プロ・エキシビション・ダンス競技会が行われました。1950年代に入ってからは外国からの参加者が増えたため、外国人専用の特別席が南のバルコニーに設けられていましたが、さらに増え続けたため、1980年に廃止となりました。近年の出場国数は50カ国にのぼります。

 

しかし、ダンス界における大きな変化は、なんと言ってもラテン・ダンスが加わった事です。1961年には英国アマチュア・ラテン・アメリカン・トーナメントが、翌年にはプロの大会が開催され、この二つの大会は1964年には選手権に格上げされました。

 

毎年恒例のチームマッチは、ことによると、最も人気があるイベントと言えるかもしれません。これは1968年に、ドイツと英国の2チームから始まり、現在は4チームで争われており、審査には中立の立場にいるジャッジが招待されています。 

(翻訳:神元 誠)

 

ハッピー・ダンシング!