MBD 3.1914年大戦の少し前

投稿者: | 2020年2月4日

ビクター・シルベスターのモダン・ボールルーム・ダンシングから「3.1914年大戦の少し前」をお届けします。

第一章 歴史
3.1914年大戦の少し前
Just Before the 1914 War

 

*印:「訳者のノート」参照。

 

 

1.ワルツ

の時期、モダン・ダンスは確かな形になりつつありました。その発展には当時のロンドンの状態に拠る所が大きかったのです。

 

現在のダンスホールに類似するものは1914年以前のロンドン市内にはまるでありませんでした。海辺のリゾート地、例えば、ブラックプール、ダグラス、マン島、モーカム、グレートヤーマス、マーゲートなど、多くの人たちが休暇を過ごした場所には大きなダンスホールがありましたが、そうした場所のなかったロンドンでは、 ‘シーケンス’ダンスの教師が所有する学校でまかなうしかありませんでした。そうした教師は公会堂や類似の場所で、週に1~2度の‘集会’を開催したかも知れませんが、そうしたパーティーではシーケンス・ダンスやセット・ダンスが盛んに行なわれていました。

 

シーケンス(sequence):シーケンス・ダンスでは様々な動きが決められた順番で使われます。当然、全カップルが同じステップを同時に踊ることになります。シーケンス・ダンスのステップは一般的に教師が考案したりアレンジしたりします。よく知られている例としては、ベレータ*、ミリタリー・ツー・ステップ、そしてマシーナなどがあります。第1次大戦前はこうしたダンスが粋なダンスパーティーで踊られることはめったになく、教師が開催する公会堂に限定されていました。粋な場所でも踊られたシーケンス・ダンスはバーン・ダンスが最後のものでした。

 

 

初めてのモダンなダンスホールは、1919年、ハマースミスにオープンした“パレイ・デ・ダンス” *でした。間もなく、バーミンガムにも同じ経営者が“パレイ・デ・ダンス”を開きました。続々誕生したこうしたパレイや他のダンスホールは、それまで人気のあった公会堂とは異なる点がありました。それは規模の大きさや設備のみならず、演奏内容が違いました。それまでの古い公会堂ではカドリール・バンドがシーケンス・ダンスを中心に演奏していましたが、パレイでは最先端のオーケストラが最新の曲を用意したのです。

 

改訂者メモ:
ハマースミス・パレイは1987年に閉鎖されました。ここの最後の重要なダンス・イベントは1986年11月に開かれたもので、私は審査員長の名誉を受けました。主催者はフィリップ・ワイリーとパム・ピータースで、お二人は当時のブリティッシュ・カウンセル・オブ・ボールルーム・ダンシング(現ブリティッシュ・ダンス・カウンセル)の議長をご招待し演説をして頂きました。当時のインターナショナル・カウンセル・オブ・ボールルーム・ダンシング(現ワールド・ダンス・アンド・ダンス・スポーツ・カウンセル)の会長も勤めていたレオナルド・モーガン氏はハマースミス・パレイができたときからの最後に至るまでの細かな歴史を述べたのです。悲しい場面でした。

 

 

大きなホテルに付属するボールルームでは、チャリティ目的やテニス、クリケット、ボートクラブなどが主催するおびただしい数の会員制パーティーが開かれました。それに加え、多くのダンスクラブができました。しかし、通常使われるクラブの定義とは異なり、店舗を所有しているわけではなく、広いボールルームを利用しただけのもので、毎週、時には隔週のパーティーを一定期間開催し、その期間中の会費を払うものでした。人々はこうした場所で時のベスト・ダンサーに出逢ったり、最新の音楽を演奏する有名バンドを知ったりしたのでした。

 

20世紀の始め、ワルツは最高峰にありました。ワルツがロンドンのボールルームに登場して以来、多くの変化を経ながら変わっていきましたが、そうした変化の多くは、1840年代後半に見られたバルセ・ア・デュ・テン*が一時のファッションであったように、瞬く間に過ぎ去って行きました。その中には、後の‘ホップ・ワルツ*’や‘スロー・ワルツ’、あるいは、‘ケンジントン・クロール’のような哀愁を帯びたダンスもありました。しかしながら全体的には、1830年にキャロル・ブラシス*が描写したバルセ・ア・デュ・テンのステップは僅かな変更があっただけで健在でした。

 

1910年までにワルツは比類なきボールルームの女王となり、24のダンス演奏種目の内、18がワルツのこともありました。他にはツー・ステップ*やランサー*などがありましたが、‘ダンサーのためのダンス’と呼ばれるものの中にランサーは決して含まれず、また、ツー・ステップは1911年までにワン・ステップに道を明け渡したのでした。

 

もしワルツの音楽の絶頂期が1910年にあったとするなら、昔風のロータリー・ワルツも、その存続をかけて戦っていました。音楽を踊りでどのように表現するか、激しい戦闘が当時の老練家たちと若者たちの間で交わされたのでした。その当時ですら、ワルツがゆっくり演奏されていたのは、人気のあった集会やダンスの専門学校においてのみだったことは覚えておかねばなりません。その他の場所では、洒落たプライベートなパーティーでも、先端をゆく会員制のパーティーでも、狩猟者の舞踏会でも、クラブでも、ワルツはかなりの速さで演奏されていたのでした。

 

そうした二組の表面的な論争は、この早い音楽で昔風のロータリー・ワルツを踊るべきか、それともボストンと呼ばれていた直線状を進んでいく踊りを採用すべきかの相違についてでした。プレス新聞は古い人々を応援し、何も知らずにボストンは奇妙だと非難したのでした。しかし、二者間の論争には更に深い原因があったのです。問題の起こりは若手のダンサーの反発にありました。彼らは、いまだに足の5つのポジションとか、かわいらしい仕草が入るビクトリア朝時代の教師が教える紋切り型の技術に反抗したのでした。そしてその結果は、大戦直後、自然な動きに基づいた現代技術の確立となって現れたのでした。

 

ボストンは一時的に勝利しました。ロータリー・ワルツは1912年までにクラブのパーティーから消え去り、踊られていたのはプライベートなパーティー、会員制パーティー、狩猟者のパーティー、そして集会場でのパーティーだけでした。

 

ボストンにはたくさんの形があったようですが、問題だったボストンとは、あの早い音楽でもっとゆったりと踊れるようにしてしまったことです。その形が最初に現れたのは1902年‘K.D.S.’ (熱心なダンサーの会) ダンス・パーティーででした。それは、ワルツとは大きく異なり、両方とも同じ3拍子の曲で踊ることを除くと、他に共通点は殆どありませんでした。

 

ボストンでは、パートナー同士は当時のアメリカン・ファッションだったヒップ・ツー・ヒップのホールド、つまり、女性は男性の右側に向き合って立ち、男性の両足は女性の右外側にありました。ボストンでのリズムはワルツに見られる長短短ではなく、3歩とも同じ長さで、更に、2小節使っていたのです。ということは、1回転には6歩必要なので4小節必要でした。また、ロータリー・ワルツではその倍が必要でした。実際のステップはできる限りフラットで出て行くものでした。

 

ボストンのベーシック・ムーブメントとしてはジグザグやターン(ナチュラルとリバース両方)、それにクラブという動きなどが知られています。すてきなワルツの音楽に合わせ、こうしたステップをものすごく魅力的にする方法がありました。当時の有名な教師がこう書いています。‘ボストンではメロディーに合わせて踊り、ステップやムーブメントはそれに付随するものです。そのため、それまでの古いワルツで求められていたビートにきちんと合わせるといったことから解放されています。ビギナーの人が自分自身でこれを体得しない限り、教えるのは不可能でしょう。多くの書物を読んでも、あるいは書いても、このことをノービスの人に理解させることはできないでしょう。このリズムこそが、生徒志願者達にとり大きな困難なのです。最近の傾向は、スケーティング・ワルツ*を真似し、それに使われている多くのスイングを回転の間に使うことです。リバース・ターンでは現実にドロップ・スリー*・スケーティング・ワルツが使われます。’

 

衰退期に入ってからボストンも普通にバリエーションを使い始めました。例えばダブル・ボストンやトリプル・ボストン、それにロイヤル・ボストンのようなバリエーションもありました。

 

1914年のあるとき、ボストンは短くも流星のような生涯を終えました。その頃はラグが流行のダンスで、ロータスや、シロズ、あるいは400*などの洗練されたフロアは混雑しており、それがボストンの消え去った原因ではないかと考えてしまいます。ボストンには余りにも広いスペースが必要だったからです。

 

そうこうしている間にタンゴがこの国を席捲し(1914年以前のタンゴには数え切れないほどのステップがありました)、タンゴのコルテとボストンが組み合わさったタンゴ・ワルツやヘジテイションをもたらしました。始めボストンやヒップ・ツー・ヒップ・ポジションで踊られましたが、多分に上に述べたような理由で、クラッシック・ワルツのホールドに戻りました。P.J.S.リチャードソン*が1915年にこの踊りについて書いています。‘ヘジテイションについて私はアメリカ人の発明と教わりましたが、個人的には誰の発明ということはないと考えます。誰かがタンゴのステップをワルツで使おうとして生まれたのでしょう。

 

 

2.タンゴ

 

タンゴはブエノスアイレス近くの貧困層、特に、評判の悪かった街の一角、‘バリオ・デ・ラス・ラナス’から生まれたと言うのが定説になっています。その時は「立ち止まるダンス」の意味の‘バイル・コン・コルテ’として知られていました。女性は長いスカートをまとい、男性はガウチョの姿に拍車をつけたハイトップのブーツを履き、そうした動きにくい格好で踊ろうとした結果、後のタンゴに結びつく幾つかの動きが作り出されました。

 

街の伊達男達はこの踊りを見、自分たちの行きつけのカフェでそれを踊り始めたのです。そして信じられないほど素晴らしい二つの変更を加えたのでした。ひとつは、より幻想的な効果を求めハバネラの音楽を使い、もうひとつは、その踊りをタンゴと呼び、もはやバイル・コン・コルテではないことを示したのです。ブエノスアイレスでは長年の間、名声を持った人たちがタンゴを踊ることは決してありませんでした。

 

ヨーロッパの人々がタンゴの名前を初めて耳にしたのは、多分19世紀終わり頃のことでしょう。1900年を過ぎてから、アルゼンチンからきたアマチュアの人たちにより、パリでタンゴのショーが散発的に行なわれました。

 

タンゴを習いその大きな可能性に感心した人の中に、後のダンサーで、作曲家、作家、そして数々のダンス競技会を開催したカミール・デ・ライナル氏*がいました。

 

1907年、彼はアルゼンチンで見たタンゴを思い出し、それをロンドンのステージで紹介する努力が必要ではないかとジョージ・エドワーズ氏*に提案したところ、彼は直ちにミス・ガブリエル・レイを呼んだのです。当時彼女はミュージカル・コメディのシンガーとして、また、ダンサーとして人気の絶頂期にありました。ライナル氏は彼女と共にミュージカルの団長を訪れ、このアイディアを説明したのでした。全員がタンゴの大きな可能性は疑わなかったものの、すぐに、そのままの形ではとてもロンドンの観客の前に出すことはできないことに気づきました。

 

その年、ライナル氏はニースにあるインペリアル・カントリー・クラブを訪れ、少数のタンゴに熱狂している人たちを集めましたが、その中にはロシアのアナスターシ大公妃の姿も見られました。ただちに全員でタンゴの実験に取り掛かり、いかがわしく見える部分を刈り込み、ボールルームで踊れる形に仕上げたのです。ライナル氏はその年に選手権大会の開催までしたのでした。

 

この新しい踊りは直にパリに伝わり、しばらくの間本部を、モンマルトル地区フォンテーヌ街にあったラ・フェリア(後のゼリス)として知られたカフェに置いたこともありました。パリにおけるタンゴの動きがこのように迅速だったため、1909年に催されたエクセルシオール紙主催の大きなダンス競技会にはタンゴも加わり、マド・ミンティをパートナーとしたライナル氏が優勝を飾ったのでした。

 

タンゴが英国に入った経緯は良く知られていて、1911年2月にこの踊りの詳細が英国に伝えられましたが、実際に見られるようになったのは翌年の夏期休暇が終わってからになります。休暇をフランスのドーヴィルやディナール、その他のカジノの町で過ごし、そこでタンゴを見た人々がロンドンでも見たいと要求し始めたのです。そして人々は、タンゴ・ティー・パーティー*に熱狂したのでした。

 

ジョージ・グロースミス*はこの国で初めてタンゴを大いに喚起した人です。彼はフィリス・デアと1912年、ゲイエティ劇場で行なわれたミュージカル、‘サンシャイン・ガール*’でタンゴを踊ったのでした。

 

グロースミスはリチャードソンに出した手紙の中でタンゴを踊るようになった経緯を伝え、‘レストラン・ダンス’の始まりとなる興味深い説明をしています。このように書いてありました。

 

「1911年冬の事。初めてのタンゴのレッスンをパリ、フェサンデリエ街のマダム・レズケの家で受けました。彼女は既に老いていましたが、まるで18才の少女のように踊ったのです。社交界のブームは実際には彼女が巻き起こし、タンゴはあっという間にパリで、後にロンドンで流行したのです。人々は、くつろぐべき自宅で、アルゼンチンの少年にピアノを弾かせ、客室でタンゴ・パーティーを開いたのでした。」

 

「カップルがレストランで踊り始めたのもこの頃です。思うに、私は早い段階で、女性を誘いテーブルの間で踊り始めた一人だと思います。見ていた人たちも私達に続いたのでした。レストランはこの新しい出来事を歓迎し(当時私はパリで上演中でした)、レストランの中央にちょっとしたスペースを作り始めたのです。ロンドンでこれを始めて行なったのはサボイ・ホテルでした。」

 

「ロンドンの舞台で最初にマシューシュ*を踊ったのも私だったと言えるでしょう。キティ・メゾンとパレス劇場で踊ったのです。ケーキ・ウォーク*はミス・フロリー・ウォードと「トレアドール」の中で、そしてツー・ステップはミス・ガーティー・ミラーと「アウワ・ミス・ギブス」のミュージカルで踊りました。」

 

1914年以前のタンゴは今日私達が知るタンゴとまるで違うものです。ハバネラの音楽で踊られていた他に、数え切れないほどのステップやフィガーがあったのです。二人の教師がいたら、同じことを教える事ができませんでしたし、踊りを規格化しようとする真剣な努力もありませんでした。同じフィガーでもスペイン語で呼ばれたりフランス語で呼ばれたりしていたため、更に混乱が増したのです。ある新聞記者が、一年中毎日、新しいタンゴのステップを見つけられると報道しても、そうした状況が改善されることはありませんでした。

 

女王の特別要求でモーリスとフローレンス・ウォルトンがメアリー女王の面前でタンゴを踊りました。1914年夏、ハムステッド州ケンウッドにおいて、ミハエル皇子により開かれたパーティーでのことでした。彼らが実際に使用したフィガーは、エル・パセオ(スロー・ウォーク)、ラ・マルチャ(より速いウォーク)、エル・コルテ、パセオ・コン・ゴルペ(ウォークと足踏み)、ラ・メディア・ルナ、ラ・ティヘラス(はさみ)、ラ・ルエダ(車輪)、それにエル・オチョ(数字の8)で、当時の一般的なフィガーでした。

 

今世紀始めの頃、粋な演奏プログラムの中にワルツ以外にあったのはツー・ステップ、ランサー、時としてバーン・ダンス、それにフィナーレとしてギャロップ*があるくらいで、ギャロップとバーン・ダンスはもはや寿命がきていましたし、ダンサー達もランサーへの興味を失いつつありました。しかし、そうしたダンスでも1914年までは狩猟舞踏会やプライベートな会員制ダンスパーティーでは踊られていました。アメリカではポルカやカドリールは続いていました。

 

1910年頃、ツー・ステップは消え去りワン・ステップが取り代わりましたが、一緒にジュディ・ウォーク、ターキー・トロット*、それにバニー・ハグ*などを連れてきました。しかし、シンコペーション*や、あの卓越した音楽、「アレキサンダー・ラグタイム・バンド」が登場したため、1912年はラグの時代となり、特に粋なダンスクラブでは最も人気の高い、ダンスとなりました。

 

ラグが台頭する前のことを知っておくのも面白いでしょう。それまでロンドンは常にパリの影響を受けていましたが、ラグが台頭してから第1次大戦後まではロンドンが先端を行き、ニューヨークが我々のダンスに影響を与えました。

 

1914年初め、タンゴのブームが去るに連れ、一時の間、非常に動きが激しいマシューシュの時代がありました。読者の皆さんはこれとシーケンス・ダンスのマシーナと混同しないで下さい。

 

タンゴもボストンも衰退したことと(ボストンの場合はヒップ・ツー・ヒップ・ポジションがクラブで踊るにはスペースを取りすぎたことについては既に触れました)ラグの支配は、ダンスを専門職にしている人たちに無益にも新しいダンスを捜すよう仕向けました。実を結ばない努力の結果として、奇妙なものが紹介されました。ファーラナ*(ローマ法王推薦と言われている)、ルルファド、ロウリロウリ、アルゼンチン・ポルカ(他のポルカに良く似ているが、それでも難しすぎた)、それに、当時‘単なる中国人のたわごと’と記述されていたタ・タオなどがそうです。

 

そうしている間に、そして大戦勃発の少し前に、なんの前触れもなくアメリカからフォックストロットが入り込んできたのでした。

 


(この項おわり)

 

 

 

「モダン・ボールルーム・ダンシング」
(ビクター・シルベスター著/神元誠・久子翻訳/白夜書房)
2005年12月出版
原書名:Modern Ballroom Dancing (Victor Silvester)

 

 

世界で60万部以上の販売実績を誇る、ボールルーム・ダンス本のトップセラー。1922年の第1回世界プロフェッショナル・ボールルーム・ダンス選手権のチャンピオン、ビクター・シルベスターがダンスの歴史を遡り、スタンダード・ダンスの起源と発達を語る。実習編では、初心者にも適した踊りから上級者向けまで詳しく解説。

 

ビクター・シルベスターは楽団を率いていたことでも有名ですし、同様に、ストリクト・テンポを確立した人としても名が知れ渡っています。私がダンスを始めた時にも、イギリスからビクター・シルベスター・グランド・オーケストラのLPを何枚も買い求めていましたので、そのように著名で偉大な人が書かれた本の翻訳をさせて頂く機会を得たことは、この上なく光栄でした。

 

神元誠・久子