Alex Moore

Alex Moore Online Museum

 

 

2010年、アレックス・ムーア氏の遺品が、お嬢様のパット・ホープ(Mrs. Pat Hope)さんのご厚意により日本ダンス教会に寄贈していただきました。このコーナーでは寄贈された遺品を世界のダンサーが閲覧できるよう紹介します。ウェブアルバムではここに掲載していない新聞記事も紹介しています。*写真について何かご存知の方は情報をお寄せください。この博物館で紹介させていただきます。

This Museum is built to show some of the articles related to the late Mr. Alex Moore M.B.E by photos. All these his relics were kindly donated by his daughter, Mrs Pat Hope, to Japan Ballroom Dancing Federation, that are currently displayed at its HQ in Tokyo.  To get larger size to read paper articles, please visit my Web Album . *If you know anything about the articles to share with others, please send me the story. It will be shown in this Museum. 

ムーア氏の遺品は(財)日本ボールルームダンス連盟に展示されています。

ウェブアルバムで他の資料もご覧いただけます。
My Web Album displays other materials such as papers or gifts.

ムーア氏と私 (Mr. A. Moore & Me)

 

 

ムーア氏と私 (Mr. A. Moore & Me)

このホームページを訪問され、アレックス・ムーア・オンライン博物館をご覧になった方は、きっとこのような疑問を持ったと思います。

 

「どうして、一個人が博物館を作るなんてことができるのだろう?」 ― と。

無理もありません。私自身、自分のダンス人生にこんな名誉なことが起こるとは夢にも思ったことがないのですから・・・

私がアレックス・ムーアという名前を知ったのは1973年頃、ロンドンで知り合った今の妻の口からでした。彼女はダンスを習いに来ていたのですが、私のダンスが始まったのはそれから何年もしてからです。面白いことに、私はダンスを習い始める前からムーア氏の「ボールルーム・ダンシング」の原書を読み始めていました。そこから先のことは、私たちの最初の本「サークルで上達するボールルーム・ダンス」に書いてありますが(下お便り参照)、その時の出版を後押ししてくださったのが、お嬢様のパットさんでした。

 

2009年夏、突然パットさんからムーア氏遺品の相談を受けました。パットさんはダンスをされないので、日本で知っているのは私位だったからでしょう。

 

その連絡を受けたとき、私は、日本ダンス界にとり大変光栄なことだと思い、何としてでも日本に寄贈して頂きたい旨をお伝えしました。すぐさまダンスファン編集部の山内一弘氏に相談しましたら、全日本ダンス教会に資料室があることを教えてくださいました。また、ダンス教会の方も快諾してくださったので、何度かのやり取りの上、2010年1月に、ご自宅を訪問させてもらいました。私にとり2度目の訪問でした。

 

それにしても、世界中のダンス界のどこを探しても、私以上にムーア氏から遠い存在の人間はいないだろうと自分でも思いますが、これがムーア氏の遺品を日本に持ってくることになった経緯なのです。すべての品物はいったん自宅に送っていただき(一部はハンドキャリー)、一つ一つの品物を写真に収めました。それはパットさんのご自宅でお話をしたときに(2010年1月)、「できるだけ多くのダンサーに見てもらいたい」とのお話をお聞きしていたので、それならば「インターネット上に載せます」と約束をしてきたからで、そのために写真撮影が必要だったからです。

 

私も妻も、実に多くのことを「ボールルーム・ダンシング」や「リバイズド・テクニック」から教わりました。このような形ではありますが、天国におられるムーア氏ご夫妻、そして遺品を提供してくださったお嬢様に少しでも恩返しが出来ることを願っています。

 

2011年6月 神元 誠

<写真/Photos>
ムーア氏の遺品を前にするパットさんとご主人のデービッドさん。2010年1月、英国のご自宅にて  (撮影:神元)
Mrs Pat Hope (nee Moore) with her husband David at home (photo by Kammoto / Jan. 2010)

 

 

お嬢さんからの手紙」

 

 

 

 

Alex Moore’s Film Gallery

 

Alex Moore’s Film Gallery

 

 

寄贈していただいた映像(1936年撮影?)
Instructional Cine-film (produced in1936?), that was contributed by Mr Moore’s daughter, Mrs Pat Hope, to JBDF in 2010. 

 

 

Quickstep (silent)

Contents: Natural Turn / Quarter Turn / Quarter Turn & Cross Chasse / Reverse Pivot and Drag / Zig Zag / Running Zig Zag / Running Right Turn / Quarter Turn, Change of Direction & Chasse Reverse / Double Reverse into Double Cross / ON WITH THE DANCE.

 

 

Slow Foxtrot (silent)

Contents: Feather & Three Step / Natural Turn / Reverse Turn / Reverse Wave / Change of Direction / Impetus Turn / Telemark / Check Variation / ON WITH THE DANCE.

 

 

Waltz (silent)

Contents: Change Step / Enchainment / Backward Change / Hesitation Change / Natural Spin / Reverse Corte / into Outside Spin / Double Reverse / ON WITH THE DANCE.

 

 

Tango (silent)

Contents: Walk / Progressive Side Step / Reverse Turns A & B / Open Reverse / Side Promenade / Open Promenade / Natural Turn / Check into Promenade.

 

 

NG scene

 

 

Demonstration by Bill Lascotte & Vera White (sound)

Contents: Foxtrot / Waltz / Tango / Quickstep. Note: Their relationship with Mr. Moore is unknown.

 


 

 

 

Alex Moore’s Photo Gallery

 

Alex Moore’s Photo Gallery

 

 

“Ballroom Dancing” に使用されている写真

足型図製作用ステンシル(裏返すと左足になる)
(“Foot Pattern Stencil” Mr. Moore Used for his books)

 

 

Alex Moore with his Partner

 

 

 

奥様のパトリシアさん(旧姓キルパトリック)
Mrs. Patricia Moore(nee Kilpatrick​)

 

 

MBE勲章

 

MBE受賞の知らせ
Invitation for MBE Award

In the Buckingham Palace(?)

下の写真はMBE受勲後、バッキンガム宮殿前にて撮影
After the Medal Presentation, in front of the Buckingham Palace

Alex Moore with his wife and daughter
お嬢さん(左)と奥様(右

 

 


以下は結婚式の時の写真
Alex Moore’s Wedding

 


A scene from 1939 ISTD Congress
1939年のISTD​コングレス模様。新聞​の切抜きと写真が額に​入っています。

 

 


 

 

  Medals and Certificates

 

 

 

Letters

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

アレックス・ムーアMBE
1982年10月発行「レターサービス」第一号復刻版より

日本のダンス界に大きく寄与した彼の名は、名著「ボールルーム・タンシング」や「タバイズド・テクニック」を通してのみならず,1978年来日本で開催されている「アレックス・ムーア杯」としても愛され続けています。

彼が発行した “MLS(マンスリー・レター・サービス)” は、1982年、ジェフリ-・ハーン氏とベギー・スペンサーMBEが共同創立したハーン&スベンサー社(現DSI社)に引き継がれ、”マンスリー・レター・サービス”と名を変えて2004年まで続き、その後再び名を“コリオグラフアー”と変え、2008年の廃刊になるまで世界中のタンサーに愛され続けました。

英国から届いた遺品の中に「マンスリー・レター・サービス100号記念付録」が含まれており、その中に奥様とお嬢様の記事を見つけました。ここにお届けするのは、身内だからこそ語れる、そのお二人のお話しです。

  (翻訳協力:三枝祥子さん Translation by Ms Shoko Saegusa)

 

アレックス・ムーアMBE
1982年10月発行「レターサービス」第一号復刻版より

 

アレックスが後の奥様となるパット・キルパトリックさんと出会ったのは、1932年のことでした。同年、彼はNATDの会長に選ばれ、その同日、ISTD(英国ダンス教師協会)のダンスボール支部委員会に仕えることになり、後にNATDの会長になるまでに至りました。また同年、南アフリカを訪れた際、現地講師からダンスに関する新しい情報を得ることが困難だ、という多くの不満の声を聴き、このことから創造力に富む彼のマンスリーレターサービスが生まれました。こうして、つつましく始められたレターサービスは、やがて世界中で読まれるようになり、日本語、中国語、イタリア語、ドイツ語に訳されました。

 1935年に出した彼の「Ballroom Dancing」は、今日までに25万部以上が売れています。そして、長年に渡り担当した英・マンチャスターで年一度行われた彼の技術講義には、毎年平均200人以上もの出席者が集まりました。

1937年、パットさんと結婚して以降は継続的にデモンストレーションを行い、イギリス・オランダ・デンマーク・ノルウェイ・ドイツ・オーストリア・フランスその他の国での講演と会議への出席、またロンドンのアレキサンダーパレスにあるスタジオから、ダンスレッスンシリーズのTV番組に数年間出演していました。

 アレックスはデンマークを訪問する際のイギリスチームキャプテンを25年以上もの間任されていました。このデンマーク遠征は、彼にとって一番楽しいものでした。というのも、彼はツボルグ社からナイトの称号を授かっていたからです。また、ボールルームダンスの教師やダンサーの中で、もっとも活躍した人に贈られるカールアランアワードを受賞していますし、1947年にはISTDのダンスボール支部議長に選ばれました。

1948年はブラックプールにてワールドコングレスが初めて行われた、ダンス界にとって重要な年でした。アレックスが世界ダンス議会ICBD(現在WD/DSC)の設立を提案したのもこの時でした。その後、多くの働きかけにより、彼が会長に選ばれてから約21年後の1951年、ついにスコットランドのエディンバラにて、ICBDが創設されました。

1959年、アレックスは英国式ダンスを教えるため、プライベートで米国を訪れています。1960年、ICBDによる最初の教師認定試験が行われました。この時も、アレックスの創造力に富む才能が将来への可能性を見出しました。

彼のマンスリーレターサービスは世の中に知れ渡り、1961年、多くの検討がなされたのち、公式に米国を視察することとなり、再びアレックスは米国を訪問します。成功に終わった数度の米国訪問は、後のISTDの米国支部設立へと繋がりました。

1976年、アレックスはボールルーム界での功績を称えられ、エリザベス2世よりMBEを授与されました。こうした受勲は、ダンス界進歩のために人生を捧げた彼にとり、実にふさわしいものでした。

アレックスの知られざる私的な一面について、奥様のパットさんとお嬢様のパトリシアさんに寄稿して頂いた記事をご覧ください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

奥様の記事

 

夫、アレックス・ムーアを語る
パット・ムーア (Pat Moore, nee Kilpatrick)

 

Alex Moore

アレックスについてなら、本で読んでよくご存じだと思いますので、ここでは余り知られていない彼の思い出をご紹介したいと思います。もしかすると、アレックスがケチだった印象を与えてしまうかもしれません。実際、彼は倹約家でした。ですが、決して困っている友達を放ってはおくことはありませんでした。

多くの方がご存知の通り、アレックスはもともと会計士でしたが、その後ボールルームダンスの方が会計士より5倍も稼げることを見出します。ダンス以外では中国の骨董品に思い入れが深く、海外での仕事で稀に、「報酬は中国の骨董品で」と申し出を受ける場合もありましたが、そうし時には二つ返事でOKしました。

もちろん一定額以上のものをイギリスに持ちには輸入関税がかかります。ある時、今までで一番美しい骨董品がプレゼントされた時の話ですが、税関で止められた彼は、

  「税金だって? こんなものいらないよ。やるよ!」

と言いつつ税金を払わず、しかも品物を持ったまま立ち去ったのです。

 

彼は、MBE受勲に感激していましたが、彼にとってはダンスのプロから贈られた4度のカールアラン賞の方がより意味深いものでした。

アレックスが南アフリカで一年間仕事をしていた際、現地の教師から、「英国で開催されるボールルーム・イベントの最新情報を届けて欲しい」と頼まれたことをきっかけに、レターサービスのアイディアを思いつきます。そこで、その企画の反応を見るために宣伝してみたところ、すぐに、やっていけるだけの十分な希望者が集まりました。

レターサービスを始めて以来、彼はただの一度も発行を休んだことがありませんでした。戦時中の話ですが、彼の父親はその頃具合が悪かったのですが、どう言う訳か「レターサービス製作時期」になると悪化し、それを口実に、アレックスは帰宅を許されていました。一年後、彼自身が足を痛めたため、傷病兵として免役されたのでした!

 

私たちのハネムーンはブライトンで過ごしました。しかし、まさかアレックスが、ホテルを予約していなかったとは思いもしませんでした。4月で空き部屋はいくらでもある時期でしたが、運が悪いことに、大きなサッカーの試合と重なり、どのホテルも満室。結局彼は警察署に駆け込み、「助けてくれなければ僕らの結婚は、一日で破綻してしまう」と泣きついたのです ― その結果、それは素敵なハネムーンになりました ― 高齢者用宿泊施設で過ごしたのです。ハネムーンなどすっかり忘れ去っているような入居者たちからは大歓迎されましたが。

アレックスは、一日にマッチを一本しか使わないほどのヘビースモーカーでした。一本目のタバコにつけると、次のタバコ、次のタバコへと火を絶やさないのです。

私たちがデモで各地を回っていた頃、片道ずつ運転を交代し、運転しない人が2人のタバコに火を点ける係りでした。ある晩、タバコを切らし、小さなお店で200本ものタバコを買いました。そのお店には大きな注文でしょうに、戻ってきたアレックスは ― 「それで足りるのか?」と言われたと ― と困惑していました。無理もありません。アレックスの口には、今にも口に火がつきそうな位短くなったタバコを、2本くわえたままだったのですから!。

70才になってから、それほど好きなタバコをアレックスは、アジア風邪にかかったのを機にやめると言い出しました。周りは笑って信じませんでしたが、それ以降、彼は一度もタバコを吸いませんでした。タバコが恋しいとも言いませんでした。彼の決心は本当だったのです!

もともと私はバレエの訓練を受けていましたが、ボールルーム・ダンスはとてもリラノクス出来るし、すごく楽しかったので、時間のある時には踊っていました。プロのバレエタンサーとして1シーズンを終えてみると、自分には体力的にも時間的にも過酷過きると分かりました。

そんな時ボールルーム・ダンスが私に手招きしたのです! 南アフリカでのボールルーム教師募集の広告を目にしたのです。さっそく応要すると、しばらくしてムーア氏のスタシオで(キングストン・アポン・テムズにある)彼の面接を受けて欲しいとの知らせが届きました。すぐに飛んで行ったわ!

 

面接中、私は彼からあるお願いをされました。

「とても大事な用事が明日の夜に入ってしまったので、私のクラスを代わりに引き受けてくれないか?」と言うのです。もちろん喜んで引き受けました。すると、さらにこう言ったのです。「その用事に行くために、君の車を貸して欲しい」って。開いた口か塞がらない私を見て、彼は「イエス」と思ったみたい。

次の日、私は受け持ったばかりの生徒たちと共に、自宅に帰るバスの中にいました。生徒たちはアレックスの素晴らしい人柄のことや、どんな風に自分に微笑みかけてくれたかなど、クスクス笑いながら話してくれました。なんとなく想像がつくでしょ? そして、そのバスの中で私は彼の「大事な用事」というのがスヌーカー(賭け玉突き)の試合だったと知ったのです。しかも、私の車で!? 私はバス?

言うまでもなく、そこまでしてする彼の熱意は到底理解できませんでした。でも、後日、アレックス流のお詫びとお礼の印に、私をサヴォイのディナーに誘ってくれました。結局私は南アフリカではなくキングストン・アポン・テムズに行ったのです。

アレックスと私が一緒に競技会に出ていたというような記事をたくさん見かけますが、彼は私と出会うずっと前に競技選手をリタイアしていました。でも、私たちはデモンストレーターとして踊り、二人か良いコンビいうことを知りました。アレックスとのダンスは、まるで昔から踊っていたように自然でした。もっとも私と同じように感じて、私と同じくらい上手に踊れた女性はたくさんいたとは思いますが、なんと言っても私には、秘密兵器がありました – アレックスと出会ったころ、彼はすでにレターサービスを始めていたので、間もなくして、私にロネオの複写機と指サックとホノチキスの魅力を紹介してくれました。彼は私がロネオで発揮した才能、無駄のないホチキス技術、レター・サーヒスを折りたたんて封筒に入れる軽快なスピートに感激したのです。さらに彼は、指サックをはめた私の指が、世界中の誰の指よりも高速で用紙を処理するのを発見したのです。それで決まり - プロポーズしてきたの!

アレックスとの話は尽きませんが、今回、思い出を振り返ることか出来、大変楽しかったです。

ボールルーム・ダンスはアレックスの人生そのものでした。ボールルームとアレックスは、互いに素晴らしい影響を与え合いました。私たち女性は陶磁器の次でも、カードゲームの次でも、スヌーカーの次でも構わないわ!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

お嬢様の記事

 

 父について
パット・ホープ (Pat Hope, nee Moore)

 

お父さんの背中には大きなホクロがあるの。

読むのをやめないで。もう少し読んでもらえれば分かるから! でも大きくなってから、お父さんなら誰でも背中にもホクロがある訳じゃないと知ってショックだった — という話しなのですが、私にも似た経験がありました。

全寮制の学校に入ってたくさんの「普通」の人たちと過ごすようになるまで、私は世の中のお父さんは、しょっちゅう、真っ昼間からイブニング・ドレス(夜会服)を着出して、夜のために出かけていくのだとか、月に1度はダイニング・テーブルで古いタイプライターをエンドレスに打ち続け、急に奥さんとリビングで踊ったかと思ったら、またタイプライターに戻る — そんなことが、ごく普通のことだと思っていました。

それから、人々がツイストしたり、グルグル回ったりしてフロアで何時間も踊っている大きな所に小さな女の子が行くのも、お父さんがTVに映る日は、夜遅くまで起きていてもいいことも・・・。

 

私の覚えている父は、月に一度タイプライターをバチバチ打っている印象で、あまり一緒に過ごした記憶はありません。確か、パスポートは有効期限がくる前にスタンプで一杯になってしまって、いつも2冊になっていました! いずれにせよ、月に一度のタイプライター打ちが終わると、世のお父さんは3日ほどいなくなるのが決まりでした。でも、そこからが本当の仕事の始まりだったのです。

まず、キッチンは巨大な機械に占領され、そこから吐き出される何百枚もの印刷用紙紙は、これまた、リビングを占領している巨大な架台式テーブルの上に、8つの束に分けられて山積みされます。ここからが指サックをはめた母の魔法の指の出番です。8つの紙の山は何時間かすると、8枚のニュース・レターの巨大な山に変わるのです。私がテーブルに手が届くまで大きくなると、直ちにこの工程の一員に加わることを許可されました。この作業が終わると、8枚を整えてホチキス止めする作業が始まります。私は、生まれた時からこの作業をやっていたと言っても過言ではありません。

失敗したホチキスの針は、後から父に見つからないよう、ゴミ箱の底に隠しました。折り畳まれたニュース・レターは、順次、椅子と椅子の間に綺麗に並べられ、クッションをよけたソファー・セットで圧縮するのですが、全てのニュース・レターが畳み終わった頃には、初めに折ったものが良い具合にペタンコになっていて、封筒に入れるのがとても楽でした。封し終わった物は国別に、決められた数毎に紐で束ね、郵便屋さんが来るまで廊下に並べておきます。そんな頃になると、父が帰ってくるのです! 

でも、これを言っておかないと彼に対してフェアじゃないわね ― お手伝いに対するお小遣いを貰ってました。いくらだったかは覚えていませんが、5歳から18歳になるまで金額は変わらなかったわ! 

 

彼は一度、授与したMBEを文字って、MBEの本当の意味は、「Mもう・B馬鹿にならないくらいの・Eエネルギーを消費する」の事じゃないかと話していましたが、そのMBE殆どは、レターサービスの発送までを一人でやってのけた母の努力の賜物です。

何年も後、私は月に一度発行されるチャリティー新聞を手掛けることになり、12年間続けましたが、どういう訳か母は、発行日になると遊びに来ませんでした。なぜかしら! 私が母よりも有利だったことと言えば、母の時代に使ったロネオの複写機がコピー機に変わった位じゃないいかしら。

毎月、指サックをはめると、私は“完全に普通”だった子供時代に逆戻りしていました!

 

事・本・雑誌(Papers, Books, Magazines)

ウェブアルバムで他の資料もご覧いただけます。
My Web Album displays other materials such as papers or gifts.