3章第7話 ホールドはハグなり?
流氷が連れてきた「しばれる」冬が去り、オホーツクの海は力強い青一色に輝いています。空気はまだ冷たいですが、もう4月の半ば。千葉大輔が妻と引っ越してきて、はや、1年が過ぎました。
夜の公民館では、いつものように元気なレッスンの声が飛び交っています。種目はブルースですが、高齢者たちは少し動きの大きな新しいステップに四苦八苦する中、今日も熱心に見学している館長さんの笑顔がひきつるようなレッスンが行われようとしています。
皆の動きを見ていた千葉ちゃんが、「パンパン!」と手を叩きました。
千 葉: みんな、悪くはないけど、もっとゆったり、楽しげに踊ろうよ。
さとし: どこ悪い?
寿 美: 踊りがカキカキ、ロボットみたいよ。真面目過ぎるのよ。
千 葉: おや、真面目なチャミちゃん先生から思い切った発言が出ましたね。じゃあ、 「あれ」やってみる?
寿 美: 「あれ」?
千 葉: そう、「あれ」。じゃあ、全員、スタートの位置に戻って。
全員がスタートの位置に揃うと、千葉ちゃんが指示を出しました。
千 葉: じゃあ、今、一人の良子ちゃんは僕と組んでください。そしたら、お互い、恋人同士と思って優しくハグしあってごらん。
全 員: えっ…
全員驚いています。「ハグ」と言えば「ほんわか」良い響きですが、日本語にすれば「抱擁」、すなわち「抱き合う」こと。社交ダンスのホールドと「ハグ」では、かなり違う感じがします。
これを聞いた館長さんがあからさまに眉をひそめているのを千葉ちゃんが見過ごす筈がありません。そうなることを予見していたのですから。
千 葉: おーい、館長さんが見ていても気にしなくていいぞー。俺が許すし、これはレッスンだから。ほら、ハグしてごらん。早く!
ミッチ: ごっつぁんです!
ハグしようとするミッチに千葉ちゃんの声が飛びました。
千 葉: ミッチ、相手が幸ちゃんだからって調子こくなよ。
みんなが笑いました。千葉ちゃんはミッチが幸ちゃんを「ギューっとしちゃおう」と思っていることを見抜いているのです。
ミッチ: 言っとくけど俺さ、お前が考えてるようなこと思ってないからなー。
千 葉: 知ってるさ。
変な会話に、みんなはまた笑っています。
寿 美: はいはい、ちゃんとハグして見て。…で、いまどんな感じ?
全 員: どんなって?
寿 美: お互いに「しっくりしてる」とか、「よそよそしい」とか?
みんなが、遠慮気味のハグをしながら自分の「中」を真剣に観察していると、最初に美和ちゃんが「遠慮した感じがする」と発言しました。それを聞いて寿美ちゃんが話しました。
寿 美: とても良いことに気づきましたね。じゃあ今度は、相手が赤ちゃんとか小さなお孫さんと思って、包み込むような気持になってハグしてみましょう。優しく、相手と一つになる感じよ。
みんなは「優しい気持ち、優しい気持ち」と呟きながらハグし始めました。目をつぶって自分を観察している人もいます。少しして悠里ちゃんの声がしました。
悠 里: だんだん分かってきた気がします!
続いて、他の人たちからも「分かってきた!」の声が続いたので、千葉ちゃんが言いました。
千 葉: そしたら、ハグしたままで踊ってみよう。ごめんね、良子ちゃんは見学していてね。じゃあ、みんな踊るよ。「さん、はい!」。
みんなを少しの間踊らせてから聞きました。
千 葉: 踊っていてどんな感じ?
ヤ ス: なんか、いい感じで踊れた!
「僕も!」「私も!」の声が続くのを聞いて、千葉ちゃんが スナックでチークが得意なカトちゃんにコメントを求めると ――
加 藤: いや、全然いいです!
と、お墨付きが出ました。
寿 美: では次の実験です。今度は、普通のダンス・ホールドに戻して踊ってください。良子ちゃん、一緒に見ていてくれる?
そして、「さん、はい!」の号令で全員が踊り出しました。今まで通りのダンス・ホールドなので、何の問題もなさそうですが、なんと、みんなの足がすぐに止まってしまうのでした。
寿 美: どうして止めたの?
さとし: さっきと、全然違う。踊りにくい。
千 葉: じゃあ、見ていた良子ちゃんに聞いてみよう。さっきと今と、どっちがいい踊りに見えた?
良 子: さっきの!
千 葉: 分かった? じゃあ、さっきと今で、何が違った?
この難しい質問に少し考えてから良子ちゃんが答えました。
良 子: ホールド…よね。
千 葉: つまり、それはどういうこと?
更に難しい質問に、良子ちゃんが、また少し考えてから出した答えがこれでした。
良 子: つまり、ホールドが踊りにくくしている…って事かしら?
寿 美: その通りよ! 凄いわね、あなた!
千 葉: いや、まじ、頭いい! どこの幼稚園でたの?
良 子: 花園幼稚園…。
全員、大笑いです。
「幼稚園」はさておいても、これは踊りの本質に迫ることなので、千葉ちゃん ―― ではなく、説得力のあるチャミちゃん先生が話をしました。
寿 美: これはホールドが踊りの邪魔をすることがあるってことを知ってもらいたくてやった実験なの。私たちは無意識のうちにホールドで固めた動きがダンスだとイメージしているの。だから、頭が「イメージ通りにしろ」と命じて、体はロボットみたい動きをする。だけど、さっきのようにハグすると、それは社交ダンスの形じゃないから、ロボット動きの指令が出せない。よって、体は自然な形で動こうとするの。
千 葉: 下手に社交ダンスのホールドを真似して踊るより、今、良子ちゃんが感じたように、ハグした踊りの方がずっと心に響く。これから僕たちは、相手を大切にハグするイメージでホールドしてみよう。そう言う感じのホールドでフォーメーションも踊りたいんだ。
この説明に館長さんも納得した様子でした。そういえば、先ほどみんながハグして踊っている時、館長さんも腕を組み直す振りをしながら自分をハグして実験に参加していたのを千葉ちゃんは見逃しませんでした。「偵察に来た館長さんを偵察している千葉ちゃん」ってとこでしょうか。
千 葉: じゃあ、もう一度その場で、優しい感じのハグをして。そこからそっとダンス・ホールドにしてごらん。
みんなが、いい感じのホールドをすると、千葉ちゃんが続けました。
千 葉: いいね、いいね! そう、そう! その感じ、その感じ。その「ひらがな」じゃなくて、その「かんじ」!
全 員: 千葉ちゃん!!
大笑いの中、館長さんが椅子からずっこける仕草をしました。
素晴らしい実験が行われた雰囲気を、いとも簡単にぶち壊す千葉ちゃんですが、案外、照れ屋なのかもしれません。そして、館長さんのずっこけ仕草も、サークルに大分馴染んできました。
この日のレッスンが終わろうとした時、花園幼稚園卒業の良子ちゃんが質問しました。
良 子: すみません、帰る前に教えて下さい。「社交ダンス」と思ったときと「ハグ」と思ったときの踊りの違いは分かりましたが、その原因はどこにあるのですか?
良子ちゃんの深い質問に、「いいとこ、突いてくるな」という顔をしながら、一呼吸おいて寿美ちゃんが説明しました。
寿 美: すっごくいい質問ね。一番大きな違いは「肘の位置」かしら。「社交ダンス」で「大きなホールドをしよう」と思うと両肘の位置が腰骨より後ろに行くことがあるの。
でも、腕が機能的に動けるのは肘が「腰骨より前」にある時なの。ハグした時の肘の位置って、そうだったでしょ?
説明を聞きながら、みんなはダンス・ホールドとハグの形をして肘の位置を確認しています。それを締めくくるかのように、良子ちゃんが静かに話しました。
良 子: なんか私たち、とても素敵なレッスンを受けているんですね…。
一瞬、ホールが厳かな感じの静寂に包まれました。
「北国ダンサー物語」(作:神元 誠)
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