【目次紹介】
“Music Was My First Love”
初恋は音楽
16. ミュージカル
The Musical
音楽とダンスの組み合わせが大好きな人たちにとり、ミュージカルは疑いなく大きな役割を果たしています。そして、ミュージカルは選択肢が豊富なので、誰の好みにも合うものがあります。このジャンルは約100年前に遡り、様々な歌とダンスを編集した一種のレビューとして始まりました。次に現れた賢明な作家たちは、複数のそうした歌とダンスのナンバーを一つにまとめ、軽い感じの演劇の筋書きとして使おうとしました。ヨーロッパでは、もう少し本格的なオペレッタという形で存在していましたので、ミュージカルは、まさにアメリカの芸術様式であり、軽快なエンターテイメントを意図して作られました。代役が一夜にしてスターになるという、いわゆるバックステージ・ミュージカルは非常に人気博しました。ダンスと歌で表現するアメリカン・ドリーム。それは実際に多くのスターたちにも起きたことです。
この分野をリードしたのはシャーリー・マクレーン(Shirley MacLaine)でした。彼女は、スターのキャロル・ヘイニー(Carol Haney)が足を負傷したことで、運良くの彼女の代役が回ってきたのです。その上、それは、映画プロデューサーと「Martin and Lewis *1」のジェリー・ルイス(Jerry Lewis)が客席にいる夜のことでした。その後のことは、歴史となって残っています。
*1 「Martin and Lewis」は、歌手のディーン・マーティンとコメディアンのジェリー・ルイスからなるアメリカのコメディデュオ。(ウィキペディアより)
ジョージ&アイラ・ガーシュイン(George & Ira Gershwin)兄弟は、1930年代にある有名なミュージカルを作りましたが、深刻な内容で、かつ、発声に関しては、通常のミュージカルよりも遥かに多くを出演者に要求するものでした。さらに、キャスティングでも大きなリスクを抱えていました。劇中のすべての役に黒人俳優を起用する必要があったのです。それは気違いじみた考えでした。当時は、黒人は特別な標識がない限り公衆トイレを使用することも、白人と同じレストランで食事することも許されなかった時代です(この劇の映画版で重要な役割を果たしたサミー・デイヴィス・ジュニアも参照してください)。それらすべての点を追求した結果、黒人オペラという新しいジャンルが見いだされるに至ったのですが、 それがミュージカル「Porgy and Bess *2」で、それまでの近代音楽の中で最も創造的な作品のひとつでした! その中の「Summertime」や「There’s a boat dat’s leavin Soon for New(ニューヨーク行きの船がでる)」等のメロディーは世界を席巻しました。
*2 アメリカの作曲家ジョージ・ガーシュウィンが死の2年前にあたる1935年に作曲した3幕9場からなるオペラ。様式から言うとミュージカルの先駆的な存在である。1920年代初頭の南部の町に住む貧しいアフリカ系アメリカ人の生活を描いており、ジャズや黒人音楽のイディオムを用いて作曲されている。登場人物はごく数名の白人を除き全て黒人。(ウィキペディアより)
その後、「42nd Street」、「Broadway Melody」、その他多くのミュージカルが続きました。サウンドが出現すると、ハリウッドはすぐに、それを使ったエンターテイメントが銀幕で大成功すると感じました。特に、バックステージ・ミュージカルのプロデューサーであるワーナー・ブラザース・スタジオがそうでした。さらにその上のMGMスタジオは独自のミュージカル部門を持ち、ミュージシャン、作曲家、脚本家、ダンサーなど、あらゆる分野の専門家と契約していて、製作者のアイディアを現実化するための最高の人材を揃えていました。MGMには、最も才能ある音楽プロデューサーたちのリストも揃っていました。ジョー・パスターナク(Joe Pasternak)、アーサー・フリード(Arthur Freed)。
星の数ほどのスターのリストには、フレッド・アステア、ジーン・ケリー、シド・チャリシー、エレノア・パウエル、ドナルド・オコナー(彼の場合、車のスペアタイヤ的存在から、20世紀フォックスの「ショーほど素敵な商売はない」でマリリン・モンローの恋人役を掴んで報われました) 、レスリー・キャロン(Leslie Caron)、ベラ・エレン(Vera-Ellen)、ジュディ・ガーランド(Judy Garland)、エステル・ウィリアムズ(Esther Williams)(彼女のために水中照明と水中カメラを備えた巨大プールを作り、彼女のウォーターバレエなどのグラマラスな泳ぎの振りを最高品質で撮影することができました)、また、オペラ座のテノール歌手マリオ・ランツァ(Mario Lanza)など、そうそうたる顔ぶれがいました。MGM がよく宣伝していたように、彼らには星空よりも多くのスターがいたのです。
それから、ミュージカルはさらに発展しました。ジョージ・バーナード・ショー(George Bernard Shaw)の戯曲「Pygmalion(ピグマリオン)」を基にしたミュージカル「マイ・フェア・レディ」は、永遠に色褪せることのない宝物です。舞台や映画で上演されたミュージカルの数は、それだけで数冊の本が必要になる程です。
最大の変化は50年代の終わりに始まりました。レナード・バーンスタイン(Leonard Bernstein)がニューヨークのストリートギャングの荒々しく厳しい現実に基づいたミュージカルを作りました。それをより正確に言うと、シェイクスピアのロミオとジュリエットの現代版「ウェストサイド物語」です。それはあらゆる記録を塗り替えることとなり、監督兼振付師のジェローム・ロビンス(Jerome Robbins)は、史上最も有名な振付師の一人となりました。「ウェストサイド物語」にいち早く注目したハリウッドは、一流のキャストを揃えて映画化しました。ロバート・ワイズ(Robert Wise)監督、ナタリー・ウッド(Natalie Wood)、リタ・モレノ(Rita Moreno)、ラス・タンブリン(Russ Tamblyn)、リチャード・ベイマー(Richard Beymer)、ジョージ・チャキリス(George Chakiris)が出演したこの映画は10部門でオスカー受賞しました!
かつて私は、ウェストサイド物語をフォーメーションで使ったことがあります。その時の競技会では、私たちの「敵」となるブレーマーハーフェンのチームはウェストサイド物語の独自バージョンを披露しました。彼らはいくつかの新しいアイディアを示したにもかかわらず、優勝するために、競技向きの伝統的な振り付けを用いました。私の方は、4カップルを1つの色の、他の4カップルには別の色の服を着せ、観客の心を「ジェッツ」と「シャークス」に近づけようとしました。振り付け全体を通して、トニーが殺されるシーンを含んだミュージカルを語ろうとしました。聴衆はスタンディング・オベーションをしてくれましたが、審査員にとっては、進歩的過ぎたものとなりました。私たちは5,000人以上の聴衆を獲得しましたが、7人の審査員には勝てませんでした。すべてを手に入れることなど、できるものではありません。
ミュージカルは他の方向にも進んでいきました。偉大なるウォルト・ディズニーは、トラバース(P.L. Travers)が描いた、子供たちのために雇った看護婦メリー・ポピンズの愛らしい物語を、大作映画ミュージカルにすることを決めました。ロバートとリチャード・シャーマン兄弟(Robert and Richard Sherman)が作曲したメロディーは、それ以来、何百万人もの映画ファンを魅了していています。「チム・チム・チェリー(Chim Chim Cheree)」、「お砂糖ひとさじで(A Spoonful of Sugar)」、「スーパーカリフラジリスティックエクスピアリドーシャス(Supercalifragilisticexpialidocious)」、「(2ペンスを鳩に(Feed the Birds)」等々、これらは公開当時から鼻歌や口笛、歌で歌われ続けています。メリー・ポピンズがロンドンのウエストエンドやブロードウェイの舞台に登場したのは21世紀になってからです。
80年代末から90年代初頭にかけてのミュージカルに私は魅了されました。現代風にアレンジしたオペラ「蝶々夫人」は、ハッピーエンドではありません。私は「ミス・サイゴン」をロンドンとブロードウェイで観ましたが心を奪われました。ディズニー・プロダクションもまた、ミュージカルのライブステージに参加したいと考えていました。ディズニーはずっとミュージカルを作ってはいましたが、それはアニメでしたので、次は自分たちのアニメ映画から(舞台用の)ミュージカルを作りだしたのでした。その最高は、「ライオンキング」の息をのむような演出です。しかし、他にも「ノートルダムのせむし男(The Hunchback of Notre Dame)」、「美女と野獣」、「ターザン」、「リトルマーメイド」などがあります。
昔と今とで大きく違うのは、かつてのミュージカルは出演者の資質やカリスマ性によって成立していたことです。したがって、これらのミュージカルは、アーティストの名前を使った印象的な宣伝をすることもありました。多くのハリウッドスターが、ブロードウェイの舞台を通じて名声を得ました!サミー・デイヴィス・ジュニアでさえ、ブロードウェイで2つのショーのヘッドライナーを務め、その両方で1年間主演を務めました! それは、「Mr. Wonderful」と「Golden Boy」です。
しかし、今日は、ほとんどの場合において、大きく変わっていることがあります。このジャンルの新しい王者、アンドリュー・ロイド・ウェバー卿(Sir Andrew Lloyd Webber)のミュージカル形式を見てみましょう。彼のショーでは、すべての技術的なトリックやサプライズが行えるよう、劇場は特注か、少なくとも完全に作り直されます。その結果、出演するアーティスト個人は少しばかり後景に追いやられ、人々の記憶にその名を刻むことはありません。似たような例として、伝統的なサーカスとシルク・ドゥ・ソレイユの比較をすでに書きました。すべてがより非人間的になり、かたや、技術への依存度が高まることになります。
だからといって、ウェバー・ミュージカルに素晴らしい曲がなかったということではありません。それどころか、彼のミュージカルにはそれぞれ、後に一流アーティストによって歌われ、より多くの人々に届けられたヒット曲がありました。たとえば、バーバラ・ストライサンドは、ウェバーの「サンセット大通り」からの2曲を歌っていて、それらは、私のお気に入りリストに入っています。曲は「With one Look」と「As if we Never Say Goodbye」で、特に「As if we Never Say Goodbye」は90年代の一連のコンサートのオープニングに非常に効果的に使用されました。
ミュージカルは常に音楽と隣り合わせにあり、ダンスとも共存してきました。ダンスには、75年前にはダンスディレクターと呼ばれる振付師が必要でした。ジェローム・ロビンズ(Jerome Robbins)のことはすでに述べた通りですが、ガウアー・チャンピオン(Gower Champion)の名前も挙げておかなければならないでしょう。彼は妻マージ(Marge)と共にハリウッドのB級映画で多くのダンスを担当しました。B級映画とは、予算が少なく、一流のタレントを使わない映画のことです。
ハリウッドで最も有名な振付師は、おそらくエルメス・パン(Hermes Pan)でしょう。フレッド・アステア自身、映画「フライング・ダウン・トゥ・リオ」の制作にあたり、彼を個人アシスタントに選んだ程です。実際のダンスディレクターはデイブ・グールド(Dave Gould)でしたが、おそらく今日では誰も彼の名を覚えていないかも知れません。エルメス・パンはフレッド・アステアの単なるアシスタントで、クレジットにも出てきませんでした。彼はフレッド・アステアとほぼ同年齢で、二人は同じ波長を感じたのです。この映画以降、彼らはシャム双生児のようになっていました。
パンが別のプロジェクトに取り組んでいて映画全体を撮ることができなかったとき、フレッドは彼のアドバイスさえ受けました。一部の映画のクレジットには一人の振付師の名前あり、別の欄に「フレッド・アステアが登場するすべてのダンスの振付師:ヘルメス・パン」と書かれています。実際には、100パーセント自分で振り付けをした人は誰もいません。彼らは完璧主義を貫いていたので、その結果、スクリーンの中で最も魔法のような瞬間が生まれたのです。
ミュージカルに関する本の1章を書いて、この人について触れないとすると、それは、まったくミュージカルについて知らないことになるでしょう! そのように思われたくありませんので、ここにその天才名を挙げます: ボブ・フォッセ(Bob Fosse 1927.6.23 – 1987.9.23) です。
ボブ・フォッセは主にMGMで働くダンサーでした。17歳の時、自分が禿げてきたと感じた彼は、自分は恋愛の男性主人公としての大きなキャリアを目指すに向かないことを悟り、演劇に転じました。彼は多くの細かな点で、自分のハンディキャップを用いた独自のスタイルを確立しました。例えば小道具として帽子を使い(ハゲを隠し)、手袋を使い(フレッド・アステアと同じく自分手の形が気に入りませんでした)、つま先を内側に向けたプリエも考案しました(もともと彼は内股でした)。彼はバレエ界のスターになりたかったのですが、特に足の問題で、バレエの主要な役にはなれませんでした。しかし、彼は諦めたり泣いたりする代わりに、自分のハンディキャップを克服し、新しいものを作り出そうとしたのです。ボブ・フォッセがスタイル的に好きだったのは、フレッド・アステアとジャズの振付師でダンサーのジャック・コール(Jack Cole)でした。
ボブ・フォッセは、華やかな衣装をすべて省いたシンプルなものを強調するのが好きでした。実際、あるショーの最後の通し稽古で、彼はドレス部門の人間をステージ呼び出し、きらびやかなものをすべて取り除くよう命じました。彼は全員黒ずくめの服装で、帽子と手袋をつけろと言ったのです。他の誰よりも、彼はシンプルな衣装から最大の効果を引き出す方法を理解していたのでした。振付家から演出家へ進むのは当然でした。そうすることでのみ、彼は最終の出来上がりをコントロールし続けることができたからです。このようにして、ミュージカル史の幾つかの道標が生まれました。
トップミュージカルスターのグウェン・ヴァードン(Gwen Verdon)と結婚したことは、彼の仕事上、有利に働きました。彼の頭の中にしかなかったものを正確に演技する方法を理解したのは彼女だけでした。しかし、そうしたミュージカルを映画化する場合、ブロードウェイ・スターだった彼女はハリウッドのスターに代えられるのが常でした。有名な「スチーム・ヒート(Steam Heat)」の曲がある「パジャマ・ゲーム(The Pajama Game)」では、グウェンの代わりにキャロル・ヘイニーが歌い踊りました。ミュージカル「Sweet Charity」ではシャーリー・マクレーンが演じ、その中の曲の「Big Spender」と「Rhythm of Life」はサミー・デイヴィス・ジュニアが収録しています。
ボブ・フォッセの最高傑作の映画とミュージカルは、商業的最大の成功の観点からも批評家の意見でも「キャバレー」です。「キャバレー」は彼に8つのオスカー賞をもたらしました! オスカーの中には、ライザ・ミネリの主演女優賞、ボブ自身の監督賞があります。ボブ・フォッセは、比較的少ない映画で、ミュージカルの世界に名を轟かせました。彼の最も有名なショーの 1 つは、彼の死後ずっと後に映画化され、いくつかのオスカーを獲得しました。エンドクレジットでは、ボブ・フォッセへの献辞「シカゴ!」がでてきます。
彼の最後の映画は、事実上自伝的なミュージカルの「オール・ザット・ジャズ」でロイ・シャイダー(Roy Scheider)が、仕事中毒でチェーンスモーカー、日中はコーヒー、夜はアルコールで生活し、朝、覚醒剤を使用しているときだけ仕事ができる振付師兼演出家を演じています。映画の中では、実際の劇場のシーンと、振り付けされた自分の死を夢見るシーンが登場します。これら2つの世界は徐々に近づいていき、最終的に彼は自らの死を演出します。
この映画に出演した二人の女優は、ボブ・フォッセとプライベートでも関わっていた人たちです。婚外のガールフレンドを演じていたのはアン・レインキング(Ann Reinking)と、実生活でもミハイル・バリシニコフ(Mikhail Nikolaevitch Baryshnikov)のパートナーでボブの娘(アレクサンドラ)の母親だったジェシカ・ラング(Jessica Lange)が死の天使を演じました。疑いもなく、これはどんな伝記よりもボブ・フォッシという人物に近い映画で必見です!
妻と私はボブ・フォッセからインスピレーションを受け、彼のアイディアを選手権のプログラムで2度使いました。最初は、「フォッセ」の軽いバージョンです。それでは、ナイトクラブの雰囲気を再現するような音楽を組み合わせて使いました。オープニングの部分はすべて「Big Spender」で構成しました。当然、ベースにあるのはフォッセの作品です。この組み合わせがうまくいったようで、ドイツ選手権では優勝、世界選手権ではリトアニアのチームと対戦して準優勝できました。因みに、補足説明になりますが、この世界選手権はリトアニアで開催されたものです。ああ、私は、どんな繋がりも見破る悪い奴です!
二度目のフォッセはその翌年に行われ、その時は100パーセント彼のアイディアを使いました。当時映画館で上映されており、誰もが知っていたミュージカル映画「シカゴ」の音楽を全面的にプロデュースしたのです。振り付けはすでに妻のベラと共同で完成させると、その後の詳細とリハーサルは完全に彼女に任せました。専門家たちはすっかり興奮し切っていました。一般的な印象として、フォーメーション・チームのダンスがこれほど異なって見えながらも、完璧に調和していたというのはこれまでにありませんでした。審査員の芸術点はそれほど高くなく、最終的に4位に終わると、私にはダンサーたちを励ますのがとても難しいものでした。毎年追い求めてきたインスピレーションは消え失せてしまいました。しかし、その振り付けは今日に至るまで若い同僚にアイディアを伝えています。
現在のコリオグラファーたち全員の名において、もちろん私の名においても、ミュージカルを現代の高みに引き上げてくれたすべての人々に感謝します。具体的な名を列挙すると、アステア、ケリー、パン、ロビン、シドニー、ドネン、フォセス、その他数多くの人たちと、多くの無名の人たち。あなたたちがいなければ、このように発展しなかったどころか、始まりもしなかったことでしょう。そうだとしたら、この世界にとって大きな損失だったのではないでしょうか。フォッシならどう表現したでしょう?
It’s Showtime, Folks!
(皆さん、ショータイムですよ!)
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