「My Way」は大好きな曲のひとつです。ハードに働いていた人なら誰しも、この曲を口ずさむと感情がこみ上げて歌えなくなった体験をしたではないでしょうか。
【目次紹介】
“Music Was My First Love”
初恋は音楽
13-5. ライブコンサート/フランク・シナトラ
Live in Concert
FRANK SINATRA (12.12.1915 – 14.5.1998)
彼が現れました。20世紀の声、比類なきカリスマ性の持ち主、ハリウッド王、フランキー・ボーイがそこに立っていました。おそらくよく知られているように、シナトラは歌手になることが、彼の最初からのそして最も大きな希望でした。ハリウッドが世界で最も人気のある歌手として彼にコンタクトするのは当然のことに思えました。
シナトラはミスター・ワンテイク(Mr. One-Take)として有名になり、それにより、監督の間では悪名が轟いていました。彼が予定時刻に撮影現場に現れることはありませんでした。単なる照明設定などのためにそこにいなければならないとなると、彼はインスピレーションを失うからでした。そして、撮影に入ると、通常、ファースト・テイクが終わると帰ってしまいました。その理由はとてもシンプルで分かりやすいものでした。彼は準備万端できていたので、ファースト・テイクですでに最高の出来だったのです!
ある監督がシーンを撮影した後、2 回目の撮影を依頼したことがありますが、きっぱり断られました。「ファースト・テイクで何か問題が? 何か間違いをしましたか?」 監督は「いえ、何も間違いはありません。」と答えてから、「2回目は予備のためです。」と続けました。 するとシナトラは、「何も間違いをしていないのであれば、私は帰ります。」 ときっぱり返事すると、帰ってしまいました。これは、いつものことです!
ひとつ印象に残った映画があります。「地上より永遠に(From Here to Eternity)」です。ほんの数ドル支払っただけで、彼はイタリア系アメリカ人のアンジェロ・マッジョ(Angelo Maggio)の役を演じ、最終的にオスカーを獲得することになりました。当時、ほぼ終焉を迎えていた彼のキャリアは、これで息を吹き返したのです!
そういえば、母はその映画が大好きでしたが、シナトラは単なる俳優であると思い込んでいました。ある晩のことです。私のラウンジに座っていた母は、私が流していたバックグラウンド・ミュージックに気づき、しばらく耳を傾けてから言いました。「あなたはいつも素敵な音楽を流しているわね。この歌手は誰?私の知っている人?」 私は母を見つめて「ママ、これはフランク・シナトラだよ!」 と教えると、母は「そんなことないでしょ…。彼も歌うの?」と言ったのです。これには驚きました。
こうした話が思い出されたのは、ライブでフランク・シナトラが”I’ve got you under my skin!” (あなたはしっかり私のもの)を歌い始めたときでした。この曲は彼の最大の成功のひとつで、コール・ポーター作曲、編曲はネルソン・リドル(Nelson Riddle)です。(この二人の組み合わせがどのような経緯で実現したか、ここに非常に興味深い話があります。シナトラが最新アルバムの収録で有名なキャピトル・スタジオを訪れたとき、関係者全員が1曲分足りないことに気付きました。そこで、彼らはこのコール・ポーターの曲を選んだのでしたが、何分収録迄時間がありません。そこで、ネルソン・リドルが、彼をレコーディングに迎えに来た車の後部座席でこの有名なアレンジを仕上げたというものです。)
フランク・シナトラは作曲家や作詞家の間で非常に人気がありました。彼は自分のライブコンサートでは, いつも曲を書いてくれた人、歌詞を書いてくれた人、そして、編曲してくれた人々の名前を出し、その曲に関わったすべての人たちに成功の分け前を与えたのです。この時のライブでは、当然、私たちが聞いたことのあるすべてのヒット曲を歌い、最後はもちろん”My Way”で締めくくりました. その後、サミー・デイビス・ジュニア、ライザ・ミネリ、フランク・シナトラの最高のヒット曲メドレーが20分続くという、一生に一度の饗宴になりました。
本名フランシス・アルバート(Francis Albert)のフランク・シナトラを、ベルギーのアントワープ、ロンドンで2回、そしてフランクフルトで見たことになります。 (フランクフルトの時、私はシナトラの熱狂的なファンだった母を連れて行きました。この夏、シナトラのゴシップ記事が週刊誌などを賑わしていましたが、シナトラが歌い始めるや、母は、そうした話をすっかり忘れ去っていました。彼の前座としてスティーブ・ローレンス(Steve Lawrence) とイーディ・ゴーメ(Eydie Gorme)が現れましたが、彼らと一緒にフランク・シナトラがメドレーを少し歌うのを見ました。)
2度目となるロンドン・コンサートの前、私の主任教師であるボビー・アービンMBEと少し口論になりました。彼女は私に、なぜそんなに高いチケットを買ってまでして、時折キーを外して歌う老人を見に行くのかと聞いてきたのです! コンサートの後でボビーに会うと、コンサートは何かダンスのためになったかと聞いてきたので、「シナトラが歌うようにフォックストロットを踊りたい」 と返事をしました。すると、彼女は「あなたがそう思ったのなら、チケットは安すぎたくらいね」と言ってくれました。
私は徐々にシナトラの歌詞の解釈が並外れたものであることを理解しました。特に彼の静かさは私を魅了しました。それは、絶え間ない学習と実践の末に得られた、本当に何かをマスターしているという認識から生まれたものなのです。
フランク シナトラの最も印象的で最も涙を流したコンサートは、ドイツのコンサートでした。それは彼のヨーロッパ最後のコンサートで、1993 年 6 月 6 日日曜日、ドイツのケルンにある「ロンカリ広場(Roncalliplatz)」で開催されました。その時の雰囲気が想像できるでしょうか? 夏の日曜日の夕方、メインの照明は、夕日に照らされたケルン大聖堂の影を背景として映し出しました。
私たちは、ステージにかなり近い12列目に小さなグループで座っていました。フランク・シナトラ・ジュニアは素晴らしいオーケストラを指揮しました。そして、今度は「ご列席の皆様!フランシス・アルバート・シナトラ!」というアナウンスと共に、彼がステージに登場しました。78歳のフランク・シナトラは、涙で、有名な「マイ・ウェイ」を途中で中断しなければなりませんでした。78歳の男が”and now the end is near and so I face the final curtain!(そして今 終わりが近づき、私は終幕を前にする)」と歌ったとき、彼は自分が何について歌っているのかを知っていました。1990年に彼の生涯の最愛の人であるエヴァ・ガードナー(Ava Gardner)と、彼の黒人の兄弟であるサミー ・デイビス・ジュニアが亡くなっています。1992年には、彼の親友ジリー・リゾ(Jilly Rizzo)が自動車事故で命を落としました。彼に過失はありませんでした。シナトラはそうしたことや、それ以上のことをこの最後の曲に注ぎ込んだのです。涙が彼の頬を伝い、見ていた私たちも涙、涙でした。
ライザ・ミネリ ⬅ ➡ マイケル・ジャクソン