今回最後の方でオリバーさんがジーン・ケリーの作品 “Dancing – a Man’s game!” が欲しかったと書いているのですが、それをYouTubeで見つけました。2年前の2021年にアップされたものでした。彼がもう少し長生きしていれば、飛び上がって喜んだに違いありません…。
【目次紹介】
“Music Was My First Love”
初恋は音楽
13-2.ライブコンサート/ジーン・ケリー
Live in Concert
GENE KELLY (23.8.1912 – 2.2.1996)
アレックスのような多くの賢い適応学習プログラムは、ジーン・ケリーをフレッド・アステア最大の競争相手として説明していますが、誰でも他のダンサーの作品よりも自分の作品の方が聴衆に好かれるよう懸命に努力することは当然のことです。この二人に個人的な対立があった可能性を完全に排除しているわけではありませんが、それとは別に、すべての競技ダンサーに役立つ、とても興味深い話があります。それは、他の人の作品の出来栄えに対処するのではなく、常に自分の作品を改善・改良しようと思い続けることです。なぜなら、どうすると他人の完璧さを止めさせたり、どうやってそれと戦ったりすることがきますか? 答えは簡単、できません!!
私がフォーメーション・ダンスのディレクターをしていた1994年、ドルトムント(Dortmund)で開催されたヨーロッパ選手権でチームの指導に当たりました。準決勝が終わり、私が決勝に向けて自分のチームに何を語るべきか、その最後の言葉に集中している最中に、ドイツ最大のライバルのブレーマーヘイブン(Bremerhaven)のTSGチームに同行していた女性ジャーナリストが私の所に直進してきました。そして、「今夜のTSG をどう思いますか?」と尋ねてきたのです。(注:聞き方によっては「今夜のTSGはどこにいますか?」ともなります)
そこで私は、彼女の期待に反する返事をしました。「この廊下を出て、左から2番目のドアを開けるといいですよ!」。彼女は明らかに困惑しました。「そういう意味じゃありません。私は、あなたが今夜のTSGが何位につけると思うかを知りたかったのです」。私は、TSGのパフォーマンスは見ていないと告げましたが、彼女に、信じられないという顔をすると、真顔で、「あなたのチームは優勝するほど良く仕上がっていますか」と聞いてきたのです。これは無礼だし生意気です。私は自分に正直な気持ちを話しました。「私がTSGのパフォーマンスを変えることは少しもできません。もし私が(TSGのパフォーマンスを見て)状況判断を誤ったならば、決勝戦に向かうチームに対して適切でない態度をとる可能性があります。でも、自分のチームだけを見ていれば、チームに正しいコメントをすることができます。それはチームのパフォーマンス改善に積極的に参加することになります。きっとね。」
ライバルチームの話をもう少し続けると、私たちはかつてブレーマーハーフェン(Bremerhaven)で行われたランキング戦で地元テレビ局のインタビューを受けたことがありますが、あのときのシーンはなんとも言えないものでした。私がインタビューを受け始めると、大勢の人が群がり始めました。インタビュアーが質問しました。「あなたは4年間、国内のタイトルも国際的なタイトルも獲得していませんが、原因は何でしょう?」 私は冷静な態度を崩さず、こう答えました。「それは、審査員から十分な1 位の票を獲得できなかったからです。」 これに聴衆は大笑いすると、元ダンサーだったインタビュアーも笑い出し、結局、インタビューを終える羽目になりました。このように、時として、質問に対する答えがシンプルすぎて把握するのが難しい場合があります。
ジーン・ケリーの話に戻ります。ジーン・ケリーはフレッド・アステアとは全く違うタイプでした。 ジーンはよりアスレチックな体をしていましたので、フレッド・アステアの繊細な動きに対し、ジーン・ケリーはアクロバチックな動きを最大限に活かしました。ここに二人と共演している比類なきダンサー、シド・チャリシーのインタビューからの引用を紹介しましょう。シドは、フレッド・アステアとは “The Bandwagon” や “Silk Stockings” で共演していますし、ジーン・ケリーとは “Singin’ in the Rain“, “It’s Always Fair Weather“, “Brigadoon” で共演しています。彼女はこのように語っています。
「夫は私がフレッドと映画を作っているのか、ジーンと作っているのか知る必要はありませんでした。私がジーン・ケリーと仕事をしていたとき、私の体は黒と青のあざだらけでしたし、フレッド・アステアと踊ったときは新品同様の体で帰宅するのを夫は見ていたのですから!」
1985年、ジーン・ケリーもAFI生涯功労賞を受賞しました。彼はオールラウンド・タレントでした。
彼は、無報酬でも脚本に取り組むことがよくありました。理由は単純で、彼のダンスやトリックのシーンは、その日のうちに彼の創造力を発揮して、筋書きの中に自然に収まるように、また彼個人の才能に即するようにする必要があったからでした。しかし、映画を作れば作るほど、ジーン・ケリーのビジョンは、それぞれの監督が考えていたものと食い違ってくるのでした。時の経過とともに彼はハリウッドで大きな影響力を獲得したため、彼はMGM のプロデューサーに、そもそも自分に監督を任せたほうがよいのではないかと説得したのです。そして、最終的にそうなりました。12 歳年下の彼の友人、かつ、パートナーのスタンリー・ドーネン(Stanley Donen *13.4.1924 映画監督・振付師)は、無条件に彼の側についていました。彼のクレジットはありませんが、 “Cover Girl“〈邦題:カバーガール〉でケリーのミュージカルに初めて取り組みました。
ジーン・ケリーはその後、女性のトップスターに適役の男性契約俳優がいなかったコロンビアスタジオに貸し出されました。ケリーは、週末にはいつも彼の周りに群がる友達を接待していました。その中には、ハリウッド ミュージカル脚本家として最も成功したベティ・コムデン(Betty Comden)、アドルフ・グリーン(Adolph Green)(二人の共同脚本としては “On the Town“, “Singin’ in the Rain”, “The Band Wagon” 等があります)、それに、ジュディ・ガーランド(Judy Garland)や彼の女性アシスタントのキャロル・ヘイニー(Carol Haney)とジーニー・コイン(Jeannie Coyne)がおり、後年ケリーはジーニーと結婚しています。数年後、ケリーとスタンリー・ドーネン(映画監督・振付師)の間に修復不可能な溝ができました。ジーンがスタンリー・ドーネンの妻だったジーニー・コインと恋に落ち、結婚したことが破局の一因であったのかどうかは、定かでありません。非常にクリエイティブなこの二人組にあった唯一の欠点は、このクリエイティブな輪の中に全く入っていない人たちの生活を一層困難にする傾向があったことです。
そうした例があります。”Singin’ in the Rain” でケリーの相手役を務めたデビ―・レイノルズ(Debbie Reynolds)は彼女の自伝の中で、ケリーについて書いています。最初、ケリーの相手役リストにデビー・レイノルズは入っていませんでした。(これは彼がシド・チャリシーに特別なダンスを踊らせるつもりはなかった時と同じです。ケリーの意見では、それはキャロル・ヘイニー(Carol Haney)でなければなりませんでした。しかし、キャロル・ヘイニーは何事に対しても非常にプロフェッショナルであり、シド・チャリシーに対しても公平でした。キャロルはシドが自分の役をマスターできるよう、細部まで学ぶのを助けたのです。)
デビー・レイノルズによると、ケリーは、会議で彼女が彼の相手役として紹介されると、非常に動転し、それを皆にわかるようにしました。特にデビー・レイノルズのダンス教育が不十分だったことは彼を激怒させました。したがって、リハーサルは非常に困難なものとなり、ケリーはデビー・レイノルズ助けるのではなく、彼女自身でもっとしっかり覚えることを期待しました。
自伝の中で彼女は、映画 “Singin’ in the Rain” のトリオ仲間で、進んで彼女を助けてくれたコスモ・ブラウン(Cosmo Brown)を演じた俳優、ドナルド・オコナー(Donald O’Connor)を絶賛しています。彼はしばしば過小評価されていますが、ドナルド・オコナーの踊りは見事です。(私たちは皆、スタジオのあらゆるものを使った彼のコミックダンスナンバー “Make ‘em laugh“(意味:奴らを笑わせろ)を覚えていると思います!) ジーン・ケリーと2度目の「友好的」な出来事の後、レイノルズは隣のサウンドステージに引き込んで大泣きしていると、突然彼女の肩に触れる人がいました。顔を上げると、ちょうど映画 “The Belle of New York“(邦題:ベル・オブ・ニューヨーク/意味:ニュー・ヨーク一番の美しい娘)のリハーサルを終えたばかりの、あの偉大なフレッド・アステアが目の前にいて、「最高の結果を出すには、自分の体を酷使する必要があります。そうすることで、偉大なダンサーの証である軽やかな演技ができるのです」と話しかけました。
水中のミュージカルスターで美しいエスターウィリアムズ(Esther Williams)が別の話をしています。これはジーン・ケリーとスタンリー・ドーネンが “Take Me Out to the Ball Game“〈邦題:私を野球に連れてって〉を作成中ことで、二人の嫌味な言葉の応酬を聞かされるのは本当に耐え難いものだったと語っています。エスターの唯一の助っ人は共演者のフランク・シナトラでした。エスターは暫しの間、MGM 最大の興行スターで、彼女もそれを自認していたので、強い自信を持っていました。信念に従い引き下がらず、自分が得た分だけ与えるのも彼女の性格でした。
否定的に聞こえるかもしれませんが、ジーン・ケリーの一見永遠に幸せそうなスクリーン・イメージを扱うとき、これらのことを知っておくことは非常に重要です。とはいえ、ジーンはハリウッドから生まれた最も偉大なクリエイティブ・アーティストの一人だったことは間違いありません。
ジーン・ケリーとスタンリー・ドーネン、そしてフレッド・アステアとエルメス・パン(Hermes Pan)には共通点が1つありました。彼らは、映画でしか実現できない振り付けをするために可能な限りを試みた点です。先に、フレッド・アステアが“Royal Wedding“で最も冒険的なソロを披露したと書きましたが、ジーン・ケリーの傑作は、実生活の映像とアニメ・キャラクターを融合させたことです。映画 “Anchors Aweigh“(邦題:錨を上げて)では、ケリーとネズミのジェリーがアニメ風景の中で踊りました。この実験に取り掛かる前、スタジオがアニメーションの王様、ウォルト・ディズニーに専門見解を求めたところ、ディズニーは「このプロジェクトに投資する価値はありますが、私にもスタッフにもその時間がありません」と答えました。実際、当時のディズニーは同様のテーマで多忙を極めていました。
その後、ケリーはこの夢を実現することになります。「錨を上げて」は、バレエ “Scheherazade“(シェヘラザード)をジーン・ケリーとアニメのジェリーがパ・ド・ドゥしたもので、芸術的でしたが興行的には失敗し、コレクターの間で希少なものとなっています。
【Memo】パ・ド・ドゥ(仏:Pas de deux、「2人のステップ」の意) とは、バレエ作品において男女2人の踊り手によって展開される踊りをいう。多くはバレエの中の最大の見せ場となっている。同性2人による踊りは「デュエット」といい、パ・ド・ドゥとは区別される。(ウィキペディアより)
ケリーの作品で欲しいのが1つあります。アーカイブに保管されていて、もしかすると個人のコレクターがコピーを持っているかも知れませんが、それは、ジーン・ケリーがTVシリーズ「オムニバス」の1エピソード、”Dancing – a Man’s game!” の制作、振り付けを担当したものです。この番組は、男性にダンスをやってみようと思わせるもので、ボクシングの世界チャンピオン、シュガー・レイ・ロビンソン(Sugar Ray Robinson)をはじめとするトップアスリートを使い、典型的な「男性」スポーツの動きで構成されたダンスを振り付けました。ダンスにとって大きな一歩となりました。
ですから、ケリーの遺産は「雨に唄えば」に限らずもっと広範囲に及んでいます。なにしろ、非常にバレエ要素を含んだ映画 “An American in Paris“(邦題:パリのアメリカ人)では、アカデミー賞で6部門獲得しているのですから。監督のヴィンセント・ミネリ(Vincente Minnelli/ライザ・ミネリの父!)は、有名画家の絵画が大のお気に入りで、この映画では、トゥールーズ・ロートレック(Toulouse Lautrec)の絵がモデルになっています。
これまで何度か話してきたように(少なくとも時には行間で)、私は結果として私にインスピレーションを与えてくれたあらゆる人のファンでしたので、自分が緊張しないのであれば、少なくとも私のアイドルの一人だけでも会ってみたいというのが夢でした。私を個人的に知っている人なら誰でも、私の特徴の一つに「自信のなさ」を認めるに違いありません。読者の皆さんは、私が控えめで神経質だと聞いて驚かれるかもしれませんが、私が自信を持っていられるのは、普段の仕事の範疇で動くとき、即ち、自分の知識を使って会話に参加できるときだけなのです。
叶わぬ夢に近づく唯一の方法は、憧れのスターたちのライブを体験することでした。しかし、まだ18歳にも満たない頃の私には自分のお金もありませんでしたし、両親も私の子供時代より裕福になってはいませんでした。それでも、あの頃逃したチャンスの多くは、後にアメリカやヨーロッパで実現することができました。残念ながら、エルビスはその中に入っていませんが、せめてもの印として、私のコレクションに2枚のDVDが入っています。
1枚はコンサー “Aloha from Hawaii” を含むドキュメンタリーDVDで、もう1枚は “That’s the Way It Is“。これは、エルビスとラスベガスのインターナショナル・ホテルとの伝説的な契約の始まりをMGMが制作したもので、舞台の裏側を見ることができます。私が生で見たいと思ったアイドル達は、ほぼ全員ライブを見られたのですから、文句を言うべきではありません。当然ながら、コンサートには最高のものもあれば、そうでないものもありましたので、ここでは、私の人生にポジティブな影響を与えた、つまり、素晴らしい体験をしたものに限定してご紹介しています。