FL20 初恋は音楽 13-1. ライブコンサート/フレッド・アステア

投稿者: | 2023年2月24日

今回はいくつもの映画の話が出てきますので、映画のタイトルを太字にして見つけやすいようにました。原書は太字になっていません。

 

目次紹介

“Music Was My First Love”
初恋は音楽

 

13-1. ライブコンサート/フレッド・アステア
  Live in Concert 

 

 FRED ASTAIRE (10.5.1899 – 22.6.1987)

パーカッションの重要性についてはすでラテンアメリカ音楽のセクションで述べましたが、私はラテン・ダンスを知る前から、リズムとの接点がありました。すでに述べたように、ダンスにおける私の目標はフレッド・アステアでした。10代の頃の私にはその理由が分析できず、単に好きとしか言えませんでしたが、今回、私のこれまでの経験と知識のすべてを使い、テレビでフレッド・アステアを見るたびに、なぜそれほど興奮したのかを分析してみようと思います。

 

私はどうしようもないほどのロマンチストです。昔の映画でも日常生活の中でも見るような、女性に対する男性の紳士らしい振る舞いが大好きでしたので、いつもその気持ちを自分の中に抱いていましたし、父もまた、私をその方向に育ててくれました――女性がコートを着るのを手伝ったり、彼女のためにドアを開けたりと。つまり、ロマンチックなのです。10代の頃には既に、体つきがよくてズボンが開いているような男の方が、同年代の女性たちにもてることに気づいていましたし、女性にとって礼儀正しい青年は退屈でしかないことも、私の経験から知っていました。でも、話を戻しましょう。

社交ダンスにはエレガントなイメージがあります。礼儀正しいお辞儀、あるいはちょっとした気配が多くを表現しています。ダンスの形は、ちょっとしたハグのようなものであり、また女性を守るものでもあります。男性は彼女を保護するフレームを提供し、女性は男性の優しく口説くようなリードの理に適った結論にたどり着きます。その最も完璧な紳士がフレッド・アステアです。常に最新のファッションを身にまとい、燕尾服やタキシードは、まさに彼のために発明されたようなもので、完璧に効果を発揮しました。

ダンサーとしての私は、彼のダンスだけでなく、彼が一瞬にして女性に手を差し伸べ、同時に彼女に安全と安心を与える所にも夢中になりました。今日のダンサーは、手の持ち方や右手の位置について、何時間にもわたる指導を受けているにも拘らず、どれも醜いです!女性は実生活で、生きている感じのしない作り物のような腕で触れられたくはないでしょう!

 

フレッド・アステアはパートナーを華麗に見せました。ハリウッド・ミュージカルの全盛期、彼のパートナーの女性はダンサーとしての教育を受けるために選ばれることはありませんでした。全くその逆でした。(一連の映画の大きな例外としてフレッド・アステアとジンジャー・ロジャースがいました)。この二人のスターの組み合わせは、非常に大きな反響を呼びました。彼らはあらゆる興行記録を塗り替え、RKO映画会社を倒産の危機から救ったのです。彼らが永久に別れることになったのは、二人の要請により、伝記映画 “The Story of Vernon and Irene Castle“〈邦題:キャッスル夫妻)を製作した後です。

 

1930年代から50年代にかけての映画界のシステムとして、映画の選択があり、そして、誰がスターになるかならないかを決定づけるPR部門がありました。その影響力は絶大でした。彼らはスターのイメージを作り上げ、その契約にはモラル条項が含まれていたのです。映画会社が何らかの理由で特定の女優をプッシュしたい場合、彼らは映画のトップ・スターのパートナーとして組ませました。たとえば、チャーリー・チャップリンの2番目の妻であるポーレット・ゴダード(Paulette Goddard)は、フレッド・アステアと一緒に映画 “Second Chorus” に出ましたが、興行的にはヒットしませんでした。観客は「何か変だ」と感じました。ポーレットがまったく踊れなかったからです。アステア氏は、それを出来るだけ隠すため、親友で振付師のエルメス・パン(Hermes Pan)氏と最善を尽くしたのですが。

映画 “A Damsel in Distress“(邦題:踊る騎士)のジョーン・フォンテーヌ(Joan Fontaine)の場合も同じでした。この時、映画会社はジョージ・バーンズ(George Burns)と妻のグレイシー・フィールズ(Gracie Fields)という素晴らしいコメディ・コンビを起用しましたが、グレイシーとの共演場面では、アステア氏のいつものロマンチックなダンスはなく、ソロで踊るシーンを見ることになりました。

 

最後にフレッド・アステアは、映画 “Royal Wedding“〈邦題:恋愛準決勝戦)で最も冒険的なソロを披露しています。彼が部屋の四隅を上手く使って踊っているのがわかると思います。家具や装飾がすべて固定された回転室で踊ったので、カットする必要がありませんでした。その回転室と同じくらい有名なのが、客船のフィットネス・ルームで踊るシーンです。彼はすべてのフィットネス器具を使い、最後には無垢の鉛でできた台座のある長い棒を使いました。原作の背景を知らない人は、しばしばこれを帽子掛けと勘違いします。彼は特にこの最後の小道具を淑女のように扱い、そしていつものように、そのパートナーが良く見えるようにしたのです!


(フィットネス・ルームで踊るシーンは16分あたりから)

 

しかし、フレッド・アステアは、私がそれまで知らなかった別のスタイルのダンスを身近なものにしてくれました。それがタップダンスです!彼は両足、両手、そして体の残りの部分を程よい具合に使って、音響的および視覚的なリズムを演出したのです。特にアコースティックのリズムは、録音済みのパーカッションにプラスして使われることが多いのですが、それが、純粋に面白いものとなりました。彼は、自分のタップの音で完成させることができたのですから。

タップダンスの形式は、主に黒人ダンサーによって開発され、支配されていました。フレッド・アステアに先立つ最も有名なタップダンサーは、伝説的なビル・ボージャングルス・ロビンソン(Bill Bojangles Robinson)です。彼はそのキャリアで財を成し、世界的に有名になったにもかかわらず、無一文でこの世を去りました。アステアは、タップの王様として、あらゆる人種や社会階層の観客に受け入れられた、おそらく最初の白人タップダンサーでした。

 

ジンジャー・ロジャースとの共演が終わると、アステアは「スタジオには天界の星の数よりも多くのスターがいる!」のスローガンで自画自賛するハリウッド随一のミュージカル工場MGMスタジオと契約を交わしました。MGMスタジオにはまた、世界で最も優れた2人の女性タップダンサーと契約をしていました。エレノア・パウエル(Eleanor Powell)とアン・ミラー(Ann Miller)です。ジンジャー・ロジャース時代の後の最初の作品は、MGMシリーズの「Broadway Melody of…」で、”of”の後に公開年が入って映画タイトルとなります。

多くの場合、ストーリーはさほど重要ではなく、MGMのスターがその才能を発揮するためだけでしたので、フレッド・アステアとエレノア・パウエルのパートナーシップを祝うに、”Broadway Melody of 1940” はこれ以上ない理想的なものでした。タップダンスの熱狂的ファンは、この映画の中のあるナンバーを、間違いなくタップダンスの史上最高かつ最も困難なシーンとみなしています。コール・ポーターの”Begin the Beguine”でデュエットするシーンは約3分もあり、本当のファンには息つく暇もありません。

1981年、アメリカン・フィルム・インスティテュートが彼にAFI生涯功労賞を授与した際、彼を称えるゲストの1人だった68歳のエレノア・パウエルは、次のような短いスピーチをしました。

「このナンバーを見るたび、私は神経質になります。タップで失敗するのではないかといつも心配しています。腕の動きだけで2週間みっちり練習しました。それがミス・パウエルとミスター・アステアでした。彼は完璧な紳士でした。私たちは二人とも一生懸命練習するのが好きでしたが、彼は一日の終わりに言ったのです。『もう一度だけお願いできますか?』。

誰かが『撮影しろ』と言わなかったら、私たちは1940年から1981年の今まで、まだそこにいたことでしょう。でも、私はこう願います。『もう一度やらせてください。王様万歳!』と。」

 

親愛なる読者の皆さん、触れておかなければならないダンスがあります。それは、1953年、フレッド・アステアがシド・チャリシー(Cyd Charisse)と撮った “The Band Wagon“(邦題:バンドワゴン)です。この映画では、アステアは若い振付家のマイケル・キッド(Michael Kidd)と組みました。マイケルはフレッドに非常にモダンでジャジーなスタイルで踊らせて実験したいと考えていました。最初、アステアは彼の年齢でそうしたことができるかどうか、さらには聴衆がスタイルの変化に満足できるかどうかも、非常に懐疑的でした。しかしアステアが説得されたことにより10分近いジャズ・バレエ “Girl Hunt Ballet” が誕生したのです。シド・チャリシーはハリウッドで最も訓練されたダンサーの一人であり、彼女の才能がアステアの才能と結びついて傑作を生み出したのですから、彼女はファム・ファタール(仏語、運命の女)だったのでした。

「バンドワゴン」の”Girl Hunt Ballet”は、30年後、マイケル・ジャクソンの最も有名なミュージックビデオのモデルとなりました(控えめに言っても約70%が使われています)。それが “Smooth Criminal“(邦題:スムーズ・クリミナル)」です。マイケルは、これを20世紀最大のダンサー、フレッド・アステアをオマージュしたことは間違いありません。

 

 


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