FL14 初恋は音楽 8-4.エルビス・プレスリーとウード・ユルゲンス

投稿者: | 2023年1月13日

今回は8人の中の最後の2人に関するお話です。私はウード・ユンゲンスの名を知りませんでしたので、「えっ、これを作曲した人!?」と驚ろいてしまいました。他の知らない曲を捜して聴くのも楽しい作業になっています。

 

目次紹介

“Music Was My First Love”
初恋は音楽

 

エルヴィス・プレスリー(ELVIS PRESLEY)

エルビスは双子としてアメリカ南部で誕生しました。数分先に生まれたもう一人は、エルビスが生れて間もなく亡くなりました。エルビスは誕生の地で音楽を作っていた人たちから音楽を学びました。殆どはプロの黒人かアマチュアの音楽家たちでした。エルビスはしばしば、黒人音楽の歌を歌える唯一の白人と言われていましたが、そこが他の歌手と大きく違った点であり、かつ、物議をかもした点でもありました。

しかし、エルビスは構わずに黒人の歌を歌ったのでした。彼は母親の誕生日プレゼントに、数ドル払って個人的なレコーディングをすると、そのオリジナルのレコーディングを偉いプロジューサーたちが見つけました。長い話を短くすると、これがきっかけで、パーカー大佐(Colonel Tom Parker)の通称を持つトム・パーカーがエルビスのマネージャーになることになったのでした。

パーカー大佐は何事を決定するにもアーティストが関与するのを許さないタイプのマネージャーだったので、最終的にはそれがエルビスの芸術魂を失わせる原因となりました。

映画を作る計画もあり、エルビスも大いにやりたがっていました。内容は鎖に繋がれていた二人の脱獄囚の話で、最初は嫌いあっていた二人が、相手を頼りにするうちに友情が芽生えて行くというストーリーでした。エルビスは共演者に親友のサミー・デイヴィス・ジュニアを選びましたが、パーカー大佐はこの映画の内容が内容なだけにエルビスのキャリアをダメにしてしまうことを恐れ、それ以上その企画に巻き込まれないよう釘を刺しました。結局映画は数年後、トニー・カーティス(Tony Curtis)とシドニー・ポワチエ(Sidney Poitier)が囚人役で作られることになりました。

 

エルビスが公開公演を始めた当初、激しく腰を振りながらロックンロールのナンバーを歌いました。そこでつけられた仇名が「エルビス、ペルビス(骨盤の意)」でした。彼は常識ではやってはいけないありとあらゆることして、その反逆的な路線が膨大な若者たちの支持を得ることになりました。パーカー大佐はエルビスのキャリアが低迷していたときに、彼を有名にする途方もない考えを思いつきました。

1973年、アメリカの州の中でエルビスが特に好きだったハワイで行われたコンサートの模様は衛星放送で世界中に放送されたのです。それまで衛星放送されるものといえば、ボクシングのムハメド・アリの試合か、月面着陸の放送位のものでしたので、このコンサートを通じて、エルビスは再び人々の心に戻ってきました。というのも、彼はしばしば引退していたからです。単純にエルビスは有名になり過ぎて、外を歩いても熱狂的なファンの攻撃を受けて怪我をする恐れがあったからです。それで暴飲暴食になってしまっていました。

 

食事はほとんどファースト・フードとコーラ。こうした不健康な食生活が心臓肥大と肥満を引き起こし、42歳の若さでこの世を去りました。

 

 

 

ウード・ユルゲンス(UDO JURGENS)

さて、ヨーロッパのスーパースターの登場です。彼は小さい子供の時からの情熱、すなわち音楽に従いました。最初に習ったのがハーモニカとアコーディオン、それから独学でピアノを覚えました。早い時期から、自分の伴奏で歌っていましたが、それだけではなく、自分のための曲を作っていたのです。初期の作品には「ジェニー(Jenny)」、「Warum nur warum(*意味は「なぜ、なぜ」)があり、そして1966年には、「Merci, Cherie(意味:シェリー、ありがとう)」でユーロビジョン・デ・ラ・シャンソン(*現ユーロビジョン・ソング・コンテスト)グランプリを獲得し、生まれ故郷オーストリアに錦を飾りました。

  

 

既にその頃から国際的なトップ・スターのために曲を書いていて、シャーリー・バッシー(Shirley Bassey)の「リーチ・フォー・ザ・スターズ(Reach for the Stars)」や、英国のシナトラと言われたマット・モンロー(Matt Monroe)が歌った「ウォーク・アウェイ(Walk Away)が「Warum nur warum」の英語版です。ウード・ユルゲンスのドイツでの人気は日増しに高まり、あらゆる世代のアイドルとなった一人です。俳優ヨアヒム・フックスベルガー(Joachim Fuchsberger)がドイツ語の歌詞を書き、ウード・ユルゲンスが作曲した音楽で世界的なヒットをしたのがドイツ語曲名の「Was ich Dir sagen will(意味:あなたに何を話せばいいの?/別れの朝)」です。英語は「The music played」、南米では「Alguien Canto」となって歌われました。

 

 

ウードは長年ツアーをしていましたが、1回のツアーでは平均25万人~45万人の集客があり、ドイツ国内外であらゆる賞を受け、賞金を雨のように浴びました。ウードはフランク・シナトラのために曲を書いたこともあります。丁度その時シナトラは舞台から引退して2年経っていたので、シナトラはその曲を友人のサミー・デイヴィス・ジュニアに譲りました。サミーは何年もの間、コンサートの締めの曲にウードが作曲した(作詞はドン・ブラック(Don Black)の曲を歌ったほどです。それが「If I never sing another song(歌ある限り)」です。ウードは既に76歳近いですが、それでも彼のコンサートでは大きなホールがいとも簡単に埋め尽くされてしまうのです。

 


原書の中の写真を持ってきました。
「ドイツ版 “Dancing with the Stars” で演奏するウード・ユルゲンス。彼と楽しい会話をしました。」

 


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