FL13 初恋は音楽 8-3.サミー・デイヴィス・ジュニアとマイケル・ジャクソン

投稿者: | 2023年1月6日

今回も二人の歌を挿入しましたが、サミーの曲を捜している時 “Rat Pack – Birth of the blues” が出てきました。この”Rat Pack”とは前回投稿に出てきたディーン・マーティンがフランク・シナトラたちと組んでいたグループのことなので、ディーン・マーティン稿に “Rat Pack”を修正追加しました。

 

目次紹介

“Music Was My First Love”
初恋は音楽

 

 

サミー・デイヴィス・ジュニア(SAMMY DAVIS, JR.)

黒人エンターテイナーとしての彼の肌の色は、一方では行く手を阻み、他方では、トップに上り詰めるための推進力となりました。サミーは人種差別というものをほぼ否定的な形でしか学びませんでした。即ち、何度も鼻を折られましたが、その度に、人種差別主義者は暴力に訴えることを何とも思わないということを知らされました。彼の全勢力は肌の色の違いという境界線を克服することに向けられました。彼はそのようにして踏み出した第1歩に満足したに違いありません。自分のことを知らない人に愛して欲しいと頼まないが、同時に、自分を知ることなく嫌いにならないで欲しいと、人々に訴えたのです。彼はチャンスが欲しかったのです。

そして彼は、出世するにつれ、白人と同じ権利を要求するようになりました。白人と同じバスルームが使えることから始まり、公共の乗り物では席を自由に選べること、宿泊ホテルの選択の自由、あるいは、出演依頼のあるナイトクラブの選択などがありました。

 

一番最初、サミーは二人の大人から学びました。一人は父親で、もう一人はウィル・マスティン(Will Mastin)で、3人はザ・ウィル・マスティン・トリオを結成しました。この二人と連れだって、サミーは3歳の時から巡業に出ていましたが、巡業先で共演した人たちの真似もして、誰よりも1歩先んじていました。サミーはどうにかボンゴの演奏ができるようになると、次にビブラフォン、そしてドラムを習いました。実際の所、サミーが本当にできないことは何一つありませんでした。トップの歌手や俳優たちの物真似も非常に上手かったです。巡業中にフランク・シナトラと親しくなりました。シナトラはサミーの知らないカーテンの陰で、それまでサミーの前で閉ざされていたドアが開くよう助けることが多々ありました。シナトラはサミーが大好きで、サミーは時代最高のエンターテイナーになれると予言していました。そして、大切な助言を与えたのです。それは、君がシナトラの真似をしてシナトラらしく聞こえることはとてもいいことだ。しかし君には、君が真似できる人たち全部を合わせたよりも才能があるのだから、自分のスタイルを確立しなさい、と。そしてサミーはそれを実行したのです。

 

ブロードウェイのヒット・ショー「パジャマ・ゲーム(The Pajama Game)」の中の曲「ヘイ・ゼア(Hey there)」や、「ミスター・ボージャングル(Mr. Bojangles)」、「バース・オブ・ザ・ブルース(Birth of the Blues)」、それにミュージカルの「ドリトル先生不思議な旅(Dr. Dolittle)」や「地球を止めてくれ、俺は降りたいんだ(Stop the World, I want to get off)」、これら総てはサミーの友人であるイギリス人のアンソニー・ニューリー(Anthony Newley)とレズリー・ブルッカス(Leslie Bricusse)によって書かれています。こうした曲に加え、他の多数の曲がサミーのトレードマークになりました。

 

 

彼は録音スタジオ、サウンド・ステージ、ブロードウェイ、そしてロンドンのウエスト・エンドとどこへ行ってもスターでしたが、彼が最も居場所を感じたのはステージの上でした。一方ではオーケストラと、もう一方では観客とのバランスを取りながら進めるステージの仕事はチャレンジの連続でした。サミー・デイヴィス・ジュニアの音楽がダンスにピッタリな事を発見した私は、アメリカで行なった最後の公演で使う事にしました。このときの振り付けにはエスパン・サルバーグ(Espen Salberg)に助けてもらいました。彼はご存知のように非常に芸術的な人ですが、現在はバリに住みつつ国際的なオートクチュールのデザインをしています。

 

サミーは、私が今までに見聞きしたことのないようなスターになることに憧れていました。お金が入ると直ぐに存分に使ってしまうのが常でしたが、彼は稼いだお金の半分しか手に残らないことを忘れてしまっていました。残り半分は税金で持って行かれてしまうのですから。しかも、彼には給料を払うべき人が10~20人もいたのです。そんなわけで、サミーはいかがわしい評判や仕事をしている大金持ちから支援を受けていたとの噂が残っているわけですが、誰が真実を知っているというのでしょう?

 

 

マイケル・ジャクソン(MICHAEL JACKSON)

キング・オブ・ポップス! まだ幼かった当時からマイケルは質の高い歌を歌っていました。子供にそんなことができるとは誰も思わなかったほどです。サミー・デイヴィス・ジュニアと違い、マイケルの場合は父親から否応なしにやらされたので、通常の子供らしい子供時代を送ることはできませんでした。最初のジャクソン・ファイブの中でマイケルは一番の年下でしたが(後にジャーメイン(Jermaine)が脱退し、一番下の弟ランディ(Randy)が加わっています)、間違いなく一番才能がありました。そんな小さな時でさえ、彼には夢がありました。

 

1970年代の終わり頃、彼は勝手にソロアルバムを出してしまいました。本名のマイケル・ジャクソン名前で。「オフ・ザ・ウォール(Off the Wall)はマイケルの名で発表した最初のアルバムですが、その中で彼は、今まで蓄えてきたものを一気に爆発させたのです。そして、クインシー・ジョーンズ(Quincy Jones)がプロジュースした2枚目のアルバムですかさず、ソロアルバムとして最高の売り上げを記録し、その記録は今も破られていません。それがスリラー(Thriller)です。レコード会社モータウンの25周年を記念した大々的なテレビ番組の中でジャクソン・ファイブが新しいアルバム「ビリー・ジーン(Billie Jean)を披露した際、マイケルは非常に個性的な自分の振り付けで踊ったのでした。

   

ここで、彼は世界的に有名なムーンウォークの独自バージョンを紹介しました。実はこのステップは以前に他の人が踊ったことがありましたが、それらを彼独特の形にしたのです。 それを最新の感覚として売り出しました! このアルバムに続き他のアルバムも成功し、彼はキング・オブ・ポップスの称号を手にしました。報道陣は先人たちにもしたように、スキャンダルを報道しまくりました。それが真実であっても無くても、雑誌が売れれば関係ないのですから! そうした力を持つメディアとマイケルとの関係は悪く、それは、そのずっと前にフランク・シナトラが経験したのと同じでした。マイケルの場合、誤情報や捏造ストーリーを余りにも頻繁にニュースとして流されました。

 

マイケル・ジャクソンが自ら決めた引退コンサートをロンドンで50回開いたのですが、それから帰る直前、50歳の若さで亡くなりました。数種類の精神安定剤を混ぜたカクテルを飲んだのが死因でした。マイケル・ジャクソンは報道を通じ、映画を通じ、CDやビデオ/DVDなど、彼が実際に登場したメディアを通じて、様々な世代の観衆と同時に繋がりあっていたことは間違いありません。もう一人だけ、マイケルと似た礎石の人がいました。その人物とは、短い期間だけでしたが、一度マイケル・ジャクソンの義理の父親になった人でした。

 


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