フランク・シナトラの “My Way”、ディーン・マーティンの “Everybody Loves Somebody” の曲を挿入しました。二つとも皆さんの大好きな曲ではないでしょうか。
【目次紹介】
“Music Was My First Love”
初恋は音楽
フランク・シナトラ(FRANK SINATRA)
フランク・シナトラの名は「20世紀の声」として世界中に知れ渡っています。彼の元気の源はどこにあるのでしょう?
彼が自分のことで気に入らなかったことの一つに、歌っている時のセリフが聞きにくいと思われていたことでした。そこで、長い文章を話す時の呼吸のタイミングにヒントがないかと、探しました。長い歌詞の所を考え、それを、いいタイミングで明瞭に発声しようとすると、沢山の空気が肺の中に必要なことが分かります。
それは、ことさらバラードを歌う場合には必須になります。一息で歌い通せないとなると、どこかで息継ぎをしなければならない問題が起きますので、シナトラはバンドリーダーでトロンボーン奏者のトミー・ドーシー(Tommy Dorsey)がしている彼独特の呼吸法を真似しました。そして、肺活量を増やすため、毎日何時間もプールで潜る練習を繰り替えしたのです。
そうやってトニーの技術を手にすることができたので、あの名声を手にしたのでした。観衆はついに彼の歌う歌詞を完全に理解したので、シナトラの歌を楽しむことができるようになりました。それ以来、シナトラにかなり似た声をだす物まねタレントが多数出現しましたが、彼の気さくなパフォーマンスに近づける人は誰もいませんでした。なぜなら、彼が楽に出している聞き心地よい声は、大変な努力の結果だったからです。
フランク・シナトラは人道的な努力に於いても類がありませんでした。彼は全力で、人種や宗教の違う人たちのことも分け隔てなく支持しました。生前、彼は困っている人々を助けるために数百万ドルの寄付をしています。しかも、匿名で!
ディーン・マーティン(DEAN MARTIN)
本名ディノ・クロセッティ(Dino Crocetti)のディーン・マーティンもフランク・シナトラ同様、イタリア系アメリカ人でした。オハイオ州のステューベンヴィルという労働者の街で生まれ、自分の声に気づく前は、炭鉱で働いたり、タバコ屋奥の違法ギャンブルの元締めをやったり、お金を掛けたボクシングをやったりしていました。彼の最初の役は、底抜けにおかしいジェリー・ルイスの引き立て役でした。二人はアメリカ史上最高に有名なコメディアンとなり、また、史上最高の出演料を得ました。二人はパラマウントと契約しました。映画は生出演程の面白さは感じませんでしたが、それでも10年で16本の映画を作り、それまでのあらゆる興業記録を破りました。
*”Martin and Lewis” は日本では「底抜けコンビ」として人気がありました。
その10年が過ぎてからマーティンとルイスはチームを解散し、ディーン・マーティンは酔いどれ役でソロ活動を始めました。これは故ジョー・ルイス(Joe B. Lewis)と組んでいた時に、すでに人気のあった役です。ディーンは胴元役も可笑しな役も誰よりも最高の才能を発揮しました。友達のフランク・シナトラやサミー・デイヴィス・ジュニアと一緒に、俗に不良グループを意味するラット・パック(Rat Pack)というグループを組んでいました。このグループにはしばしばケネディ大統領を義兄にもつピーター・ローフォード(Peter Lawford)やコメディアンのジョーイ・ビショップ(Joey Bishop)も加わりました。他に(歌手で女優の)ジュディ・ガーランド(Judy Garland)とシャーリー・マクレーン(Shirley MacLaine)がマスコット的存在として名誉会員になっていました
しかし、その中でもディーンが一番面白く、また彼は、ラスベガスにあるサンズ・ホテルのコパルーム(Copa Room)でのステージをとても楽しんでいました。一方、NBCのバラエティ・ショーではできる限りクールな役に徹していました。数百万ドルを稼ぐのに、彼は日曜昼間の撮影でスタジオにいれば良かっただけです。しかも彼はリハーサルには参加せず、ゲストのスターたちと収録前に会うこともありませんでした。彼の演技はほとんど即興だったので、その方が良かったのです。たとえキュー・カードの読み違えをしても、それで役を外されてしまうことはなく、かえって彼の人間らしさとなって現れたのでした。
自分の失敗を笑い飛ばしてしまう彼の才能は最高でした。実に、ディーン・マーティンは自然体の不良で、非常に仲間受けが良かったです。彼の実生活は、しかしながら、世間が抱く彼のイメージとは正反対の物でした。彼は2度結婚し7人の子供がいました。午後6時から始まる家族全員揃っての夕食に遅れたことがありません。これはマーティン家の伝統でした。その伝統を守れなかったのは、映画の撮影が入ったときと、よその町の公演で帰宅できない時だけでした。
8-1. フレッド・アステアとジーン・ケリー ⬅ ➡ 8-3.サミー・デイヴィス・ジュニアとマイケル・ジャクソン