オリバーは、映画「Love Story」を思い出しつつ今回のタイトルを決めた気がします? 勝手にそんなことを想像し、冒頭に歌を挿入してみました。
【目次紹介】
“Music Was My First Love”
初恋は音楽
4. どこからはじめよう?
Where do I begin?
学校の音楽のクラスではすぐに音楽の先生たちと仲良くなりました。私が既にある程度のクラシック音楽の知識を持っていたからです。高校に入るとバイオリンのレッスンを受けられる恩典を与えられました。バイオリンは学校から貸与されましたが両親はバイオリンの授業料を払う羽目になりました。
しかし、私がもがき苦しんで創り出す音はあなたの想像を遥かに超えるものでした。自分の神経でさえ耐えられませんでしたので、たちまち、男性版ベネッサ・メイ(Vanessa-Mae)になるには限界があると悟ったのでした。簡単に言えば、バイオリンは長く続かず、次なる自分の人生を模索していました。次に私は、二つのことを同時に始めました。ある日、近所の女の子エリザベート・ヴァイヒェルト(Elisabeth Wichert)が話しかけてきました。時に、レジデンツ・ダンスクラブに子供クラスができたところで下。
(註:バネッサ・メイは1978年生まれ、シンガポール出身のヴァイオリニスト。現在はイギリス国籍。)
残念なことに、子供クラスでは男の子が足りなく、何組かは女の子同士で踊っていました。既に私が恥ずかしがり屋だと言う事をお話ししましたが、それは何ら不思議な事ではなく、事実なのです。そしてその時、私の中に男としての実に当然な意識がひたひたと入り込んできたのです。エリザベートは彼女と一緒に会員になって欲しいと言われ、それが私の人生をガラリと変えることになったのでした。そのクラスでは女の子が多く、間違いなく女の子と組むことができたので、それ以来、私の恥ずかしがり屋さんの出る幕が無くなって行きました。
とはいえ、不思議なことに、私はこうしたダンスというものをそれまで見た事がありませんでしたから、このクラスから将来、競技選手が生まれるなどとは思いつきもしませんでした。競技会をテレビですら見た事なかったのですから。でも、女の子を腕に、しかも、音楽に合わせて動き回れるだなんて! これがエリザベートの誘いに乗った一番大きな動機でした。
レジデンツ・ミュンスタ・クラブでは、この新しく作った子供たちのクラスを大きくし、特別なサポートが受けられるよう特別クラスを設けることにしました。そして、特別クラスの生徒たちたちは2週に1度ハンブルグからお招きされる、当時世界プロ・ラテン・アメリカン選手権2位のウルフガング&エヴェリン・オピッツ(Wolfgang and Evelyn Opitz)夫妻の特別レッスンを受けさせてもらったのです。
これですべてが変わりました。オピッツ夫妻はドイツ代表二組の中に選ばれていましたから、テレビのダンス番組には頻繁に登場していました。とどのつまり、私は彼らアイドルたちと一緒にクラスを楽しむことができたのです! この特別クラスでは、度々、生徒による2、3種類のダンスのショーも行われました。男の子たちは濃紺のズボンに黄色のタートルネック、そして濃紺のベスト姿でした。タートルネックだったのは、それが1971年当時の一般的なファッションで、どこのショッピングセンターでも買うことができたからです。男の子の中の一人の母親は、生地代込み15DMでベストを作っていましたので、両親は長いこと考えた末になんとか15DMを工面してくれ、私もベストを作って貰うことができました。
(参考動画)
1971年6月19日のことです。ミュンスターにあるハーレ・ミュンスターランド(Halle Munsterland)で特別クラスの生徒によるショーが行われることになりました。そこは、数々のヨーロッパ選手権や世界選手権が開催される有名なホールです。記録を色々調べて見ると、それは世界のトップ・アマチュア選手による9ダンス競技会だったことが分かりました(当時のアマチュア競技にはジャイブが入っていませんでした)。
メインイベントは二組の同時優勝となりました。二組ともダンス界の歴史に名を残す偉大な人たちでしたが、当時は、彼らの名前さえよく知らない私でした。競技会の名称はヨーロッパ・ダンス選手権で、その二組とは、英国のピーター・マクスウェル&リン・ハーマン(Peter Maxwell & Lynn Harman)組とドイツ、ミュンヘン出身のペーター&ハンニ・ニューベック(Peter & Hanni Neubeck)。当時18歳のピーター・マクスウェルは、その後、競技会の世界の頂点に登り詰めました。1985年からは私の先生の一人にもなりました。そんなわけで、この大会は私の人生最大の出来事となったのでした。
真夜中にはウルフガング&エヴェリン・オピッツのショーがありましたが、私たち子供たちは時間が遅すぎるとの理由で先生たちからもアイドル達からも観るのを許して貰えませんでした。皆で不平を言ったり泣いたりしてなんとか説得を試みたのですが、やはり帰らざるを得ませんでした。当時、午後10時以降の子供の外出は禁止されていました。そういう時代だったのです!
(参考動画)
一人の禿げ頭の男がフロア上のカップルの間を歩きながら、時々立ち止まっては何やらメモを取っていました。後で知ったのですが、その人はデンマーク出身のボルゲ・イェンセン(Borge Jensen)で、単独審査をしていたのです。同時に分かったことは、私たちが踊っていたのも、どうやら競技だったということでした。その後まもなくして、その優勝者として私の名が呼ばれたのでした。 パートナーはクリスティルド・ハイネ(Christhild Heyne)で16歳。私は可憐な11歳でした。当時、私はそのクラスに入って間もなかったので、地元のダンスのヘルガ・グレーベ(Helga Grebe)先生は、まず、私の名前を聞いてきました。優勝賞品はカルクオフ社(Kalkhoff)の折りたたみ自転車でした。でも、その自転車は私の手元に2日しかありませんでした。翌日の月曜日、景品の座席取り外しができる自転車にまたがって公立図書館に行きました。私は結構いい利用者でした。その教育のオアシスでひと時を過ごしたのち自分の自転車に座席を取り付けに戻ると、何と、知らない間に盗まれていたのです。
しかし、この2日間で新しく家族の一員となったこの自転車にすっかり馴染んでいたので、頑張って一生懸命練習し、またダンス競技会で優勝して、また、景品で貰おうと思いました。それで、ダンスを続けたのです。その後19年間、練習して、汗をかいて、輝かしい経験をしたり、落ち込んだりしもながら、この趣味を続けて行くうちに、ダンスが自分の専門職に感じられてきました。でも、あれ以降、自転車は貰えていません!
さて、先に同時に2つのことを始めたと書きましたが、一つ目がダンスで、もう一つはダンスの子供グループに参加する少し前から始めたピアノでした。小さい時にお世話になったあの修道院で、一人の修道女からピアノのレッスンを受けることにしたのです。
私がその後ダンスを仕事とするようになってから悟ったことに、そこでの経験があります。それは何かの習い事で上手くなれるかなれないかは、その人の持つ才能や猛練習もありますが、それだけではなく、先生からどれだけその気にさせてもらえるかにも依るという事です。特に始めたばかりの生徒に対しては、どれだけ先生やコーチがその生徒の興味を引き出せるかが重要になります。この考えは学校の先生も含め、あらゆる先生に当てはまると私は思います。そこが、単なる仕事と職業の大きな違いですし、職業の理想的な形として天職があります。
半年ほど続けた後、私はダンスかピアノのどちらかを選択すべきか決断しなければならなくなりました。そして、わたしの今までの人生の振り子は大きくダンスの方に触れたのでした。その理由として、一組のダンス界のアイドルの影響があったことは疑う余地ありません。ウルフガング&エヴェリン・オピッツ夫妻は私のアイドルでした。何度エレガントな踊りだったことか! オピッツ夫妻とは正反対の所にピアノを教えてくれたあの修道女がいました。彼女は彼女のベストを尽くしてくれていたのでしょうが、嫌々なのがはっきり表れていました。
ウォルト・ディズニーの映画「天使にラブソング(Sister Mary Clarence)」で名優ウーピー・ゴールドバーグ(Whoopi Goldberg)が見事なシスター役を演じていましたが、残念ながら私のピアノの先生には、メリーのような人をやる気にさせるような資質はありませんでした。とはいえ、その時学んだ基本的な専門知識は、後のダンス人生で大変役立ちましたけどね!
(参考動画)
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