FL03 初恋は音楽  1. 初めの始まりは

投稿者: | 2022年10月29日

今回からいよいよ本編に入ります。タイトル通り随所にミュージシャン名や曲名が出てきます。そうした音楽をネットで見つけたときは記事の中に挿入し、オリバーの気持ちに近づいてみようと思います。今回の記事が青字なのは、彼の言う「個人的で主観的な思い出」になります(まえがき参照)。

 

目次紹介

“Music Was My First Love”
初恋は音楽

 

1.初めの始まりは
 First Beginnings 

 

音楽について何か書こうと思ってはみたものの、実際に文字にするのは想像以上に大変でした。当然なのでしょうが。ただ、やらねばならない時が来てしまいました。

私、ことオリバーは、父ウルフガングと母レナータ(Wolfgang and Renate)の間に、3人兄弟の2番目として生まれました。母の旧姓はアインファルト(Einfalt)です。なぜこんなことを書くのかというと、こうした子供の頃の背景を知って頂くことで、これから読んでいただくことが分かりやすくなるからです。ですから、私が生まれ育った十分に幸運な家庭について触れることをお許しください。

父、ウルフガング・ヴェッセル・テルホーンは1930年11月13日生まれで、彼の母親は当時の典型的な主婦でした。少々、掃除魔的な所もありましたので、父と二人の妹、ウルスラとヒルデガルト(Ursula and Hildegard)にしてみれば大変なことでした。子供たちって、遊んだら足跡をつけるじゃないですか!

 

父方の祖父の名はオットー(Otto)で音楽家でした。私の音楽に対する興味も情熱も、きっとこの祖父の影響と思います。第二次大戦前は自分のダンス・オーケストラを率い、当時としては日常的な事としてカフェなどのような、ちょうど良い環境があれば、そうした所で演奏をしていました。祖父は終戦1年前に捕虜収容所で死亡しましたが、当時14歳だった私の父がその遺体を家に連れて帰らなければなりませんでした。そうした、かなり密接な祖父とのつながりや経験が、私の父を強くしました。

 

一方、母の子供時代は父とは全く違う物でした。母は1935年12月15日、丘の上の街ゾブテン(Zobten)で生まれました。母は実際の所3番目の子供でした。というのも、彼女が生まれる2年前に双子が生まれていたのですが、数日しか生きられなかったのです。そして、母が生まれ、その後から二人の弟ができました。子供の頃の母レナテは自然の中で育ちました。単に育ったというより、大いなる自然児だったという方が正しいかも知れません。

大戦中、母の家族はヨーロッパの西の方へと避難しました。当然そこには、私の祖父は入っていません。祖父は陸軍に徴兵されていましたから。避難途中、幾つかの土地に立ち寄りながら、祖母と3人の子供たちはヴェストファーレン(Westfalen)のミュンスター(Munster)に辿りつき、そこで落ち着くことにしました。

 

現代と違って、当時の若者たちには多くの楽しみはありませんでしたので、10代の若者たちは夕方になると踊りに出かけるのが、何よりも重要な行事になりました。戦後のミュンスターの人気スポットは “ハイデクラグ(Heidekrug)” でした。言わずもがな、私の両親はここで初めて出会いました。でもそれだけではありません。父は出逢ったその日に母にプロポーズしてしまったのです!(私は今も昔も恥ずかしがり屋ですから、その血は引いていません!)。当然、その日の母は、そんな彼のプロポーズを真に受けませんでした。父がどの程度真剣だったか分かりませんでしたが、後日、父の独身アパートには、モーツアルトを聴いている二人がいました。

そうした音響効果の効いた環境下で何が起こったか知りませんが、私の兄はモーツアルトの音楽のお陰で誕生しました。両親は1953年11月に結婚しましたが、兄、ウルフガング・ジュニアは翌年7月4日に生まれたのですから。

 

私は1960年2月2日(ドイツ・カーニバル前の金曜日)に生まれました。弟は1964年5月19日に生まれて我が家の家族が勢揃いしたのですが、弟が生まれた時、兄と私は、心を込めた歌を捧げることにしました。それが礼儀正しい迎え方と思ったのです。あれ程感情豊かに歌った讃美歌 “Holy God we praise Thy name”(聖なる神の御名を賛美)(*下に動画)、誰も聞いたことがないと思います。


(これは英語ですがオリバー達はドイツ語で歌ったことでしょう。)

 

私たち兄弟が貧困の中で育ったといえば極端かもしれませんが、でも、今日の多くの人たちと比べると、かなりそれに近かったでしょう。両親は必死で働いていました。父は電気溶接工として出来高仕事をしていました。つまり、定期収入ではなく、その日に仕上げた仕事に対する歩合制! うまくたくさんできれば、それだけお金がもらえる仕組みです。

その前は、もっと事務的な仕事をしていました。父はかなりのインテリで、どんな不正にも我慢できない性質でした。ミュンスターのIRS(税務局)で訓練を受けていたときも、自分が正しいと思ったら教官を指摘してしまう程でした。概ね父の方が正しかったようですが、訓練を受ける側は、棒の短い端の方を握っているに過ぎません。IRSでの仕事はたちまち終わり、待ち受けていたのは熟練を必要としない仕事でした。

 

一方母は、中堅企業でタイピストの仕事をしていました。母は私たちを7時前に修道会に連れて行きました。そこは1日中預かってくれる幼稚園のような所で、修道女たちが子供たちの面倒を見てくれました。私たち兄弟は午後遅くまでそこで過ごしていると、母はよく大きな買い物袋を提げて迎えに来てくれましたが、それは家族5人分の食事でした。

家に帰ると母は私たち兄弟一人一人との時間をつくり、何か問題があれば話し合うようにしてくれました。経済的な問題に関しては、我家は常連客でしたから、両親はどうやって切り抜けていたのだろうと、いつも不思議に思っていました。

 

私が6歳になるまで住んでいた所は、屋根の下の50平米の小さなフラットでした。トイレはフラットの外(!)、階段通路の所にありました。思い起こせばお風呂もありませんでした…! 6歳の誕生日の後で引っ越しましたが、そこは旧陸軍が使用していた兵舎を幾つかの借家に改造した所でしたので、お風呂もトイレも、勿論電話も中にはありません。しかし、良かったことは、より広い場所を以前より安く借りられたことです! その後、通路の向かい側のフラットも借りることができ、そこを兄弟3人だけで使用したので、スペース的には非常に改善されたと言えます。

 

あるクリスマスの日、サンタへのお願いリストを作りました。私の願いはステレオ・レコード・プレーヤーでした。好きな音楽は6、7歳の男の子にしては結構変わっていました。初めて気に入ったのは両親が少し持っていたレコードから見つけました。お気に入りの中でも特に好きだったのは、当時流行っていたイタリアのヒット曲のドイツ版でした。曲名はマリナ(Marina)(*下に動画)。ロッコ・グラナタ(Rocco Granata)が作詞・作曲したものを、ウィル・ブランデス(Will Brandes)という名の若者がドイツ語で歌っていました。不思議なことに、その後彼の歌を聞いたことがありません。お気に入りの中には、グンタ・カルマン聖歌隊(Gunter-Kallmann-Choir)の“エリザベスのセレナーデ(Elizabethan Serenade)”(*下に動画)もありました。

かくして、私だけのコレクションが始まったのでした。

   
“Marina”と”Elizabeth Serenade”

 

かつて、ウォルト・ディズニーのアニメ映画のサウンドトラックを使ってお話を聞かせてくれるというのがありました。それを聞くと、見た映画の場面がありありと浮かんできました。当時はビデオもDVDもありませんでしたからね。

 

あるとき、音楽番組で(確か「スタジオBからの音楽」だった気がします)イスラエルのエスター&アビ・オファリム(Esther and Abi Ofarim)というデュオが歌うオラ(Hora(*下に動画)を耳にしました。これはイスラエルで最もポピュラーなフォークダンスの曲ですが、私はたちまち二人のファンになりました。何と言っても二人の歌が良かったですし、エスターの美しかったこと。かくして私はイスラエル音楽が大好きになりました。そこに隠されているメランコリーな雰囲気が、いつでも私の心を揺さぶりました。イスラエルの歴史を振り返ると、それはごく当然で驚くことでもないでしょう。私がイスラエル音楽を好きになり、それがどのような影響を及ぼしたかということについては、この先おいおい詳しく書いていくことにしましょう。


“Hora”

 

ドイツのテレビやラジオ、映画やレコード界でのスターと言えばロイ・ブラック(Roy Black)でした。今の人は彼のことを汚らしいラブソングを歌う派手な歌手としか覚えていないことでしょうが、彼の映画「君といるとき(When you are with me)」(*下に動画)が駅前通りを渡ったローランド映画館で公開された初日、私は彼のすぐ隣に立っていました。そうすると、一層彼の大ファンに感じられました。想像してみてください、小さなオリーがティーンエイジャーのアイドルの隣にですよ! 


(英語タイトルをドイツ語に翻訳して見つけました)

当時、ハーレ・ミュンスターランド(Halle Munsterland)で夜に公演するスターたちは、昼間、市役所のホールでサイン会をするのが恒例でした。また、こんなこともありました。1969年も終わりに近づいたある日の午後、私と兄はエスター&アビ・オファリムの真ん前に立っていたこともあります。エスターは白のミンクコートに膝まである白皮のエナメルブーツを履き、アビは60年代に流行っていたスタイルのスエードのコート姿でした。

 

当時9歳だった私は当然、潜り込んででもそのコンサートに行こうと考えていましたし、両親は私が熱烈なエスター&アビのファンと知っていましたから、何とか行かせてあげたいと思ってくれていました。そこで、両親はこの突発的な出費をどうやって捻出するか、長い話し合いをした後で、兄と私にお金を出してくれたのでした。当時の金額で1人5DM(ドイツマルク)でした。私たちの席は天井に近い所でしたが、なにはともあれ、入ったのです!!! これが、初めて行かせてもらった大きなコンサートでした。実は、この大きなホールはその後の私の人生の中で更に大きな役割を果たすことになります。将来、この場所で豪華な食事つきのコンサートを楽しむことなど、その時は夢にも思いませんでした。

このコンサートの経験で、イスラエル音楽に対する私の愛情は一層強くなっていきました。とりわけ、エスター&アビ・オファリムの音楽に対しては。そして私はお小遣いを節約し、また、人気のあった休日の仕事も始めました。例えば、スーパーのレジもしましたが、なんと時給2.40マルク貰いました(ええ、ドイツマルクですよ)。

 

そうして貯めたお金で、オファリムのレコードを全部集めようとしました。それが叶ったのは何年も先、私が定期収入を得るようになり、古レコード屋に通うようになってからのことでした。ほぼ完ぺきに揃えたオファリムのレコードを時間をかけてCDに落としたので、車で遠出する時は、懐かしい思い出に浸りながら楽しむことができます。

 


2.  音楽が持つ力