IL21 第13章 ビル&ボビー・アービン伝記を少しだけ

投稿者: | 2020年5月4日

「ビル&ボビー・アービンのダンス・テクニック」(白夜書房/神元誠・久子翻訳/2011年)を公開します。原書は2009年に英国のDSI社から出版された”THE IRVINE LEGACY” (Oliver Wessel-Therhorn)です。

 

目次

書籍「ビル&ボビー・アービンのダンス・テクニック」

 

 

第13章 ビル&ボビー・アービン伝記を少しだけ
A Short Biography of Bill and Bobbie Irvine, MBE

ビル・アービン MBE 20.1.1926 – 14.2.2008  / ボビー・アービンMBE 27.7.1932 – 30.5.2004

 

ウィリアム(愛称ビル)について

ウィリアムはスコットランドの小さな村キルシス(Kilsyth)で生まれました。とても小さいときから大志を抱いており、家計を助けるため新聞配達をしてわずかなお金を稼いでいましたが、その後、馬車での牛乳配達も始めました。馬の名前はドゥードゥルズで、しばらくの間、彼の一番の友達でした。肉屋で手伝いをしたこともあります。

Google Mapより

彼は、ダンスについては殆ど分かっていませんでしたが、自分の村や近隣の村々で行われるパーティーに踊りに行くのが好きでした。肉屋の同僚のファニー・バーンズと言う人が大のダンス好きで、その人こそが、彼にダンスの第1歩を教えた人物でした。ビルは一人の女性に定期的に踊ってほしいと頼み、練習を積んで町の大会に出場して優勝しました。賞金はわずかばかりでしたが、当時の規約は現金を受け取るとアマチュアとは見なされないとなっていたので、彼は賞金を受け取り16歳の若さにしてプロになったのでした。

 

第2次大戦が終わりに近づいた頃、ビルは英国海軍に徴兵されました。海軍では身体訓練のインストラクターとしての教育を受け、その教育を通して、人体の解剖学に対する最初の洞察力が生まれ、その時の知識は後の彼にこの上ない価値をもたらすことになりました。

 

海軍から戻ると、彼はダンスのインストラクターになる決心をします。そして、専門的な技術を教えることで有名な学校に入りました。そこでは、アレック&ペギー・プルーブンから基礎教育を受けたのですが、彼は生涯を通じて、自分が行ってきたことの総ての土台は学校にあったと断言していました。

 

ビルが、たまたまグラスゴーを訪れていたジョセフィン・ブラッドリーからレッスンを受けたのはその頃です。ブラッドリーの日記にはその時のことがこう刻まれています。「その若者にレッスンをしました。お茶目で元気いっぱい。溢れる才能。技術なし。」

 

ビルはヘンリー・ジェイクスのレッスンを受けるためにロンドンに出かけました。それから、南アフリカに行くオファーを受けました。ジョン・ウェルス&レニー・シッソンズという有名な英国チャンピオンのもとで働くためです。ヘンリー・ジェイクスはイギリスに留まるようアドバイスをしましたが、ビルは冒険を求めて旅立つことにしたのでした。

 

 

 

ボビーについて

旧姓ボビー・バーウェルはとても豊かな一族の出身で、未来の夫とは全く違った環境で育ちました。その一つに、家庭が南アフリカのオウツフルンでダチョウ牧場を営んでいたことが挙げられます。そのようなわけで、ボビーは小さいときから動物と触れ合っていましたし、後年、ボールルームの衣装に美しいオストリッチの羽をつけたことでも有名です。若いときにはバレエを習い、また、短期間ですが、モデルをしていたこともあります。彼女の家族は、彼女がビジネスウーマンになることを期待していましたが、彼女にははっきりとした夢がありました。それはダンスでした。既に他の人とダンスの経験を積んでいたからです。

Google Mapより

一方、南アフリカに来たビルは、アイーダ・クルガーという女性と組んで競技会に出場していました。ダーバンで開かれたゴールド・カップ大会で優勝した時のことです。新聞に載ったインタビュー記事が彼のことを「南アフリカ・チャンピオン」と書いたのです。しかし、当時の南アフリカ・チャンピオンはバーノン・バレンタインであり、彼のパートナーは、あのボビー・バーウェルでした。

 

すると、真の南アフリカ・チャンピオンのバレンタインから一通の手紙が送られてきました。「南アフリカのチャンピオンは、おまえなんかじゃない!」、と。それに対するビルの返信も挑戦的でした。「心配無用! 一月後にはなっているから」

 

しかし、次に行われた選手権ではバーノンとボビーが優勝し、ビルとアイーダは2位。彼の言葉は実現しませんでした。しかし、この選手権によって、ロンドンで行われるチームマッチの出場権を得たのです。そして、このチームマッチが終了すると、バーノンもアイーダも引退を表明したのでした。ビルとボビーは共にパートナーを失い、共に英国で長いときを過ごしたのです。

 

しかしながら、ビルとボビーがカップルを組むのは、まだ、数か月先のことです。二人は南アフリカに戻り、そこで、ボビーは教師試験を受けるためにビルから教わったのでした。二人が恋に陥るのはこの時期のことです。二人が一緒に踊るのは自然なことですが、ボビーにはビルより背が高すぎるとの考えがありました。しかし、二人の恋愛が進むにつれ、どれだけ大きな努力を払おうと、二人でパートナーを組んで踊る決心をしたのです。

 

もはや離れて住むことなど考えられない二人でしたが、二人の強い個性はスタジオに入るとぶつかり合い、一緒に練習さえできない程でした。ともあれ、二人は1957年に結婚し、南アフリカ選手権を幾度も優勝したのち、英国に引っ越し、そこで偉大なるエリック・ハンコックス、レン・スクリブナー、チャールズ・シーボルト、コンスタンス・グラント、そして、のちにはソニー・ビニックの教えを受けたのでした。

 

1960年にベルリンで開かれたワールド・プロフェッショナル・ボールルーム選手権で優勝し、その時のナインダンスでも優勝、そしてまた、ラテン・ダンスでは準優勝しました。この試合の優勝候補となっていた英国人カップルの人たちは試合をボイコットしたため、大会では英国人カップルの姿は見られませんでした。ボイコットした人たちはアービン夫妻も忠誠心を見せ、仲間に加わることを期待していましたが、二人はそうしませんでした。アービン夫妻には自分たちが南アフリカを代表していて、ボイコットとは関係ないとの考えがあったからです。この考え方は、みんなに受け入れられた訳ではなく、しばらくの間、英国での生活は苦しいものになりました。

 

ビル&ボビーの宿敵と言えばピーター・エグルトン&ブレンダ・ウィンスレードですが、初めての出会いは、スコットランドはグラスゴーでのことでした。二組の有名な“デュエル・オブ・ジャイアンツ”が行われるかなり前のことです。テレビのリハーサルをしていた時、ビルはピーターに近寄って行きこう言いました。「今夜、君たちが優勝することは分かっている。だけど、観客の中に一人だけそう思っていない人がいるからね。俺のお袋さ!」

 

その夜、競技会が始まると、観衆から割れんばかりの声援がスコットランド人のビルとその妻に対して起こりました。そして、フロアの中央付近でピーターたちがビルたちとすれ違ったとき、ピーターがビルにこう言ったといいます。「あれが、君のいうお袋かい?」と。

 

アービン夫妻とピーター・エグルトン&ブレンダ・ウィンスレード。ロイヤル・アルバート・ホールでのデュエル・オブ・ジャイアンツにて。

 

アービン夫妻が真の頂点に上り詰めたのは1962年になってからのことです。ブラックプールでの全英選手権で優勝したのです。しかし、前年は5位に終わった二人でしたので、この優勝は予想外のことでした。二人の有名なタンゴのストークが披露されたのはこの時でした。それからは、全英選手権では更に3回優勝し、1966年にはラテン・アメリカンでも優勝しています。その時は水曜の夜にラテン・アメリカンに優勝し、二日後の金曜夜にはボールルームで優勝しています。

 

二人は世界中を回り、優勝に優勝を重ねました。ボールルームでは7回、ラテンでは3回、ナインダンスでも3回優勝。1968年のロイヤル・アルバート・ホールで開かれた大会では同じ日に2度優勝しています。この記録はしっかりとギネス記録として残っています。ビルはカール・アラン賞を5度受賞していますが、ボビーはそれを超えること6回受賞しています。

 

二人はダンス人生の中で、ダンサーならだれもが夢見る賞や、世界中のプロフェッショナル協会の名誉会員など、事実上、世界中のありとあらゆる賞を手にしていますが、そのすべてをここに列挙することは不可能です。

 

彼らはレクチャーやデモをして世界中を回りました。ヨーロッパ、アメリカ、アジア、オーストラリア、もちろんアフリカにも。1967年にはエリザベス女王2世から、MBEを授かりました(興味深いことにこのMBEはカップルにではなく、一人一人に対して与えられるものなので、厳密にはビル・アービンMBE、ボビー・アービンMBEと分けなくてはなりません)。その日は、彼らの人生の中でも、紛れもない最上の日だったことでしょう。

 

ビルは、1980-1982年の間、英国ダンス教師協会(ISTD)及び、世界ダンス議会(WDC、当時はICBD)の会長を務めています。また、ビルは、新しい世代の人たちにはブラックプールの審査委員長として記憶に残っているかもしれません。世界中から来たダンサーはステージに立っている彼の姿を目にしたことでしょう。「紳士淑女の皆さん今晩は」 ― 彼の声はブラックプールの声であり、多くの人に取って、ブラックプールとビルは対のようなものでした。審査委員長としての彼の名はブラックプールの伝統となって知れ渡り、世界中で最も重要なダンス・フェスティバルに名を刻んだのでした。

カール・アラン賞を受賞するボビー

ボビー・アービンは、女性が参加する、事実上すべてのボールルーム・ダンスにおいて女性の模範になっていました。あつらえのパンツにシルクのブラウス、そしてパンツによくあったシューズ。これは女性の先生たちのファッションとなりました。彼女のプロに徹した姿勢は、彼女をブラックプールのジャッジの中でももっとも目立つ存在にしたのです。審査する際、彼女にはお気に入りのコーナーがあり、だれもその場所を取ろうとはしませんでした。

ブラックプールのお気に入りのコーナーで

 

私生活においてもボビーはプロフェッショナル・ダンサーとしての立場を貫き、尊敬されていました。そうではあっても、彼女は私が知り合った中でも最も心温かい、最も可愛らしい人の一人で、あの優雅な女優、オードリー・ヘップバーンに似ていたと思います。こんなこともありました。ある時、ボビーが飛行機に乗ると、すぐさまファーストクラスにアップグレードされたのです。飛行中はVIP待遇。そして目的地に着くと、スチュワーデスは「ミス・フォンテイン、搭乗していただいて光栄でした」と言いました。英国の偉大なバレリーナのマーゴット・フォンテインと間違われたのです。ボビーは誇りを持って「私はボビー・アービンよ」と答えたと言います。

 

ビル&ボビーの理論的で哲学的なレッスンを受けることができたラッキーだった人たちは、きっとこの言葉を覚えていることでしょう。

 

「ボールルーム・ダンスはシンプルだ。易しくはないが、概念としてはシンプルだ。オリー、もしそれが難しいと思うなら、それはスタートからして間違っている。それは保障するよ」

 

動きや形を直す時のボビーは実に忍耐強かったです。同じステップを何時間でもきちんとできるようになるまで続けます。最低、自分が納得できるレベルになるまで何時間でも。ビルからは教え方も教わりました。

「教えることは触れること」

 

彼は常々そう話していましたが、実際そこがまた、彼の先生としての偉大な所でもありました。彼がある場所に触れると、問題が解決してしまうのです。本当にビルの手は魔法の手でした。そしてキス攻撃! 「ダーリン、愛しているよ。でも、君の足はひどいもんだ!」などと言いながら。

 

ある日のことです。私はとても光栄に思いました。ビルが私の唇にキスしてきたのです。私は誇らしく微笑んでいると、ボビーが近寄ってきて言ったのです。「深く考えなくていいのよ。誰にでもキスするんだから。相手がいないと、犬でもいいのだから」

 

ビルは確かに個性的で、いつも自分の思う通りのやり方をしていました。ある大きな競技会のジャッジをした時、ボビーと同じパネルになったことがあり、ジャッジをしていると、後ろから彼の声が聞こえてきました。「やってられない! こんなくそ音楽で踊らされて、ダンサーたちは可哀想だ。やめた!」と言って、立ち去ってしまったのです。

 

もう一つ面白い話として、ゴルフの話があります。休日にビルはゴルフをしたいと真剣に思っていました。そこで先生についてレッスンを受けたのですが、先生はレッスンの最後に悪い点をまとめてくれたのです。「アービンさん、ゴルフで上手くなりたいのなら、スイングがどのようにして生まれるか、その原理を勉強し、足と膝と腰の動きがどのように連動しているかを勉強すると役に立ちますよ」と。言うまでもありませんが、それ以来、時折ゲームを楽しむものの、レッスンを受けたことはありませんでした。

 

ビル&ボビーはボールルーム・ダンスの発展と転換に深く関わっています。そのことについては、私たちは永遠の恩義を感じることでしょう。ビルから直接教わった人なら殆どの人が、レッスン中に一度はビルが事務所へ行き、古いリバイズド・テクニックを手に戻ってきたという経験があると思います。そしてこんな風に言うのです。

 

「オリー、これは私のバイブルだ。しかし大切なことはそこに書かれていることじゃない。大切なのは、なぜそのように書かれているかという事を知ることなのだ」と。もう一冊、彼が愛し、無限にあふれる彼の知識の源となった本があります。それは、メーベル・トッド著の“ザ・シンキング・ボディ”でした。

 

以前、ダンス・ニュースに掲載された一面記事のタイトル、「私はテキストブックを窓から放り投げたりはしない」を覚えている人もたくさんいると思いますが、ビルは今日のボールルーム・ダンスの発展について非常に懸念していました。歴史の損失、ダンサーの技術に関する知識の欠如、演奏されている音楽に対する無知など。そして、「このままでは20年以内に、誰もボールルーム・ダンスがどのようなものか、知る者はいなくなるだろう」と予言したのでした。

 

ビル&ボビーは実に多くの人の人生に影響を与えました。私は映画「素晴らしき哉、人生!(It’s a wonderful life)」をよく覚えています。有名なフランク・キャプラ監督のクリスマス映画で、主演のジェームズ・スチュワートが、もし自分がこの世に生まれてこなかった場合の世の中が見えるようになる男の役を演じます。

 

もしビル&ボビーがいなかったなら、私たちのボールルーム・ダンスの世界がどうなっていたか、想像できるでしょうか? ビル&ボビーは多くの人々にとり人生の一部でしたし、今もそうです。なぜなら、彼ら以上にこの世界に影響を与えた人物は、後にも先にもいないからです。二人の死は、二度と帰らない一時代の終わりを告げました。しかし、死とは、だれもその人たちを思い出さなくなることではないでしょうか。私たちは、ビル&ボビーの遺産を、責任を持って受け継いでいかなければなりません。それは私たちの義務なのです!

 


(「第13章 ビル&ボビー・アービン伝記を少しだけ」おわり)