「ビル&ボビー・アービンのダンス・テクニック」(白夜書房/神元誠・久子翻訳/2011年)を公開します。原書は2009年に英国のDSI社から出版された”THE IRVINE LEGACY” (Oliver Wessel-Therhorn)です。
書籍「ビル&ボビー・アービンのダンス・テクニック」
第12章 ダンスの歴史を少々(ワルツ)
A Little Dance History
ボールルーム・ダンスの包括的な歴史の流れについて、あるいはフィガーの発祥について書こうとしても、それはスタートの時点から上手くいかないことが分かり切っています。ダンスの先人たちの記録がほとんど残っていないからです。競技会のビデオ撮影は禁止されていますが、ダンスの歴史資料を包括的に考えるとき、それは致命的な規則です。少なくとも、重要なイベントにおいては公式記録が残されるべきでしょう。ビル&ボビーも同じことを私に話していました。
ダンスの偉大なパイオニアであるジョセフィン・ブラッドリーは、死後、自分の日記をビル&ボビーに残したことから、二人は実に多くの知識を学ぶことができました。そうした日記に残されていることや、前世代の人々と交わした無数の会話が、この章の基になっています。自分が受け取った情報が個々のダンスにどう当てはまるか、できる限り整理をしながら書いて行くことにしましょう。
■ワルツの歴史■
最初にワルツが出てきたのは1917年のことです。その時についたニックネームは“レーム・ダック(役立たず、死に体の意)”でした。1922年になるとワルツは競技ダンスとして受け入れられるようになり、初めてのプロフェッショナル世界選手権で優勝したのはビクター・シルベスター&フィリス・クラークで、彼らが踊ったのは“ラウンド・ワルツ”と呼ばれるワルツでしたが、このワルツでは左回転しかありませんでした!
1923年、この栄えある選手権を制したのはマクスウェル・スチュワートとバーバラ・マイルズでした。マクスウェル・スチュワートはこのタイトルを5度獲得していますが、そのうちの2度はバーバラ・マイルズと、残りの3回はパット・サイクスとでした。ブラッドリー女史の日記によると、1924年にマクスウェル・スチュワートとパット・サイクスはドラマチックなスピンをする新しいフィガーでワルツを華やかなものにしましたが、そのフィガーこそが、ダブル・リバース・スピンでした。ダブル・リバース・スピンの「ダブル」は、二人が観衆やジャッジの目を引くために、いつでも2回繰り返して踊っていた所からつけられたものです。当初は4回も繰り返して踊っていました!
1924年、ISTDはボールルームの支部を創設し委員会を作りました。委員会には次の方々をお招きしました。イブ・ティネゲート・スミス、ムリエル・シモンズ、シンシア・ハンフレイズ、ビクター・シルベスター、そしてジョセフィン・ブラッドリーです。招かれた人たちの仕事は、世界中のダンスの先生が共通の知識を得られるように、ワルツ、フォックストロット、タンゴ、クイックの専門的な基礎を練り上げることでした。ISTDは、そうした専門技術を用いることによって、イングリッシュ・スタイルが世界に広まることを願っていたのです。
― イングリッシュ・スタイルの始まり ―
1926年、ジョセフィン・ブラッドリーはアメリカ人のG.K.アンダーソンと踊っていました。アンダーソンは人々から「アンディ」と呼ばれていました。この二人はラウンド・ワルツがちっとも面白くないと感じていました。そして、ここからイングリッシュ・スタイルの最も重要な一歩が踏み出されたのです。
ジョセフィンの生徒にアレックス・ミラーとフィリス・ヘイラーがいました。ジョセフィンは二人を使って左回転だけではなく、右回転もあるワルツを試したのです。この新しいワルツは部屋の斜め方向(ダイアゴナル)に進むものでした。壁斜めに踊り始めて、2小節使って右に3/4回転し、中央斜めに終わりました。そこからクローズド・チェンジを使い、今度は左に3/4回転してクローズド・チェンジに続けます。そして、再び壁斜めに踊り始めるのです。
このワルツにはある重要な動きが含まれています。それは、一人がパートナーを通り越す、あるいは、パートナーをやり過ごすようにすることです。当時としては奇抜なこの考え方は、ボールルーム・ダンスに革命を起こしました。緩やかなライズを伴う横へのスイングが生まれたのです。
1927年になると一つの大きな出来事が起こりました。デイリー・スケッチという新聞社が毎年開催の大きな競技会を初めて企画したのです。そこで委員会は、この競技会で優勝したカップルのワルツの踊り方を公式なテキストブックに用いるとしたのです。何が起きたと思いますか? アレックス・ミラーとフィリス・ヘイラーがダイアゴナル・ワルツを踊って優勝したのです。このとき以来、人々の前からラウンド・ワルツが消え去ったのです。そして、二人の踊りからベーシック・ステップの発展が始まり、新しいバリエーションが作られるようになったのです。
偶然新しいフィガーが生まれることがあります。しかも、ダンス界を代表する有名な人物によって。ここでは、そうした話をいくつか紹介して行きますが、初めは、最もクラッシックなフィガーの一つ、ウィスクについてです。
パット・キルパトリックと踊っていたアレックス・ムーアはウイスキー好きで、レッスン前に1、2杯飲んでいたことは広く知られていましたが、それがムーア氏のバランスに影響を及ぼしたのでした。彼は左から右へのクローズド・チェンジでバランスを崩し、左足を閉じる代わりに右足後ろにかけて倒れないようにしたのでした。ウイスキーの災いが転じて生まれた新しいステップには、なんの工夫もなくウィスクと名付けられたのです(ウイスキーの英語Whiskyからyを省いただけ)。
チャールズ・シーボルトはウィスクを更に発展させた人で、左回転のチェックとして使ったのがレフト・ウィスクです。その後、バック・ウィスクやフォーラウェイ・ウィスクがつくられるのは時間の問題でした。
― ビル&ボビーが創り出したフィガー ―
1960年、ビル&ボビーが南アから英国に戻って来ると、ホールドが以前より広くなっていました。特に女性のポジションがずっとフリーになっていたのです。そして、誰もがある新しいフィガーを踊っていました。それは、ヒンジと呼ばれるものです。このヒンジでは、男性が左足フラットで一種のオーバースウェイをする間に、女性はレフト・ウィスクに似た、右足後ろに左足をクロスする形で両足トウに立ちます。
ビル&ボビーはこの新しいピクチャー・ポーズをハマースミス・パレイで練習していましたが、まるでしっくり行きませんでした。原因はボビーの足がビルより長かったからです。そうでなくても、二人の身長差はほとんどありませんでしたから、自分が妻より小さく見えるという事は我慢のできないことでした。そこでビルはボビーに、
「低くいろ。ライズもするな。左足を右足にクロスする代わりに、その足を後ろにやってくれ」、と頼んだのでした。
こうして生まれたピクチャー・ポーズは、女性の足が後ろに投げ出されたように見えること、そして、男性はオーバースウェイの形をとる所から、ブラッドリー女史が“スローアウェイ(「投げ出す」の意)・オーバースウェイ”と名付けました。
1961年のことです。チャールズ・シーボルトのレッスンを受けていたアービン夫妻は、何か新しいことをしようとしていました。ダブル・リバース・スピンから左足のトウ・ピボットを踊り、そこからもう一度ダブル・リバース・スピンを、今度は男女のステップを入れ替えて踊りました。ラウンド・ワルツによく似た、流れるような動きが作られましたが、若くてダイナミックなビルには動きが小さく、物足りなさが残りました。そこでビルは、男女を入れ替えてのダブル・リバース・スピンの前半をリバース・ピボットに変え、次に左足前進からヴィニーズ・ワルツのリバース・ターン前半のように踊りました。この時以来、「ヴィニーズ・クロス」という呼ばれ方ができたのです。
その頃は、ベーシックのリバース・ターンを見ることは稀になっていました。足を閉じるため、流れが悪くなるからです。それに対し、ナチュラル・スピン・ターンは、リズムの変化をつけた、更に大きな動きを伴うランニング・スピン・ターンに発展しており、そこから通常のアウトサイド・チェンジ、そして、サイド・ロックにつなげて踊られていました。しかし、ビルがリバース・ピボットを繰り返したことで、通常のダブル・リバース・スピンにも広がりがもたらされました。ダブル・リバース・スピンからリバース・ピボットを2回連続して踊り、そこから再びダブル・リバース・スピンを踊るのです。このようにして、素晴らしくダイナミックで、速い左回転のバリエーションが生まれたのでした。
同じ年、ビル&ボビーはISTDの講習会に招かれました。当時二人はまだ現役の競技選手でしたので、バリエーションを教えるという形でのレクチャーを依頼されたのです。レクチャーでは何か違ったものにしたいと思っていたビルはバレエを観に行き、バレエダンサーの美しい動きに触発されて二つのアイディアを思いつきました。一つはデベロペー、そして、もう一つはアティチュードでした。これら二つは現在、様々な形でたくさん使われていますが、それも、二人が先駆者として存在したおかげです。
幾つかの例を挙げましたが、たとえ正確な日が分からないとしても、あるフィガーが初めてダンスの世界に登場してきた背景を知ることは、とても楽しく興味深いことだとおもいます。例えば、ワルツで使われているウイングの名称の起こりは、実に、詩的でもあります。女性がウイングになった形が、あたかも、母鳥がひな鳥の上に翼を広げているようだと、その様子からつけられたものです。また、ビッグ・トップというフィガーがありますが、これはルンバ・クロスの左回転バージョンとして考案されました。そのため、初めはリバース・ルンバ・クロスと呼ばれていたのです。