MBD 6.1918年から初めての「世界」へ

投稿者: | 2020年2月4日

ビクター・シルベスターのモダン・ボールルーム・ダンシングから「6.1918年から初めての「世界」へ」をお届けします。

第一章 歴史
6.1918年から初めての「世界」へ
1918 to the First ‘Worlds’

 

*印:「訳者のノート」参照。

 

1. ワルツ

争の間、ワルツは死んだも同然でした。戦争が終わるとワルツのことも知らない新しい世代のダンサーが出てきました。ワルツはめったに演奏されませんでした。唯一、‘ミズーリ’という曲が休戦時に大ヒットしましたが、明らかに、マズルカのリズムでした。

 

ドイツやハンガリーの楽団は速い音楽のファッションを作り出していましたが戦争の間に消え去りました。代わって、当時人気が残っていた集会などでまだ踊られていたスロー・テンポのワルツに着目した新しい楽団が登場したのです。その頃ヘジテイションを入れたロータリー・ワルツが踊られていましたが、かなりのリバース・ターンが使われる一方、ナチュラル・ターンの不在が眼につきました。その理由は一風変わっていました。当時は誰も彼もがフォックストロットを踊っていたのですが、初期のフォックストロットではナチュラルの方向には全員がオープン・ターン(フォックストロット・ターン)を使っていましたが、リバースの方向には大半ワルツのリバース・ターンを用いたのです。その結果、ワルツを習った事がない人たちでもリバース・ターンは踊れましたが、ナチュラル・ターンは踊れるようにならなかったのです。まれにワルツの音楽が演奏されると、たくさんの人達はフォックストロットのステップで踊り、完全なナチュラル・ターンはめったに見られず、ワルツの精神が失われる重大な危機となりました。しかし、ダンシング・タイムズの呼びかけで行なわれた1921年の非公式会議でワルツの精神は復活したのです。その会議で現代のワルツの基礎、‘ステップ、ステップ、足を揃える’が定義されたのでした。ワルツの精神は特に、その年の冬に開かれたデイリー・スケッチ社*主催の大きなワルツ競技会でも復活しましたが、まだレベルが低かった頃ですから、果して優勝者が完全なナチュラル・ターンを一度でも使ったか疑問です。

 

ナチュラル・ターンの不在は別にして、当時のワルツには現在のワルツに通じる点が多々あります。一つだけ違うのは、リバース・ターン前半では足をクロスし、後半ではヒール・ピボットを使ったことです。ナチュラル・ターン前半の3歩は今と同じでしたが、後半はバックワード・チェンジが使われました。チェンジ・ステップでの3歩目は揃えずに通過する足です。様々なヘジテイションの動きも好まれました。私とパートナーが始めての競技会で優勝したときに使ったのもこの形のワルツでした。

 

ワルツに何かが欠けているとの思いは海外にも広まっていましたが、パートナーと私は戦後のイギリス人ダンサーの中で完全なナチュラル・ターンをマスターした一人で、私たちはロンドンではじめて開催された初回の世界選手権でそれを使いました。優勝できたことを私たちは誇りに思っています。それは1922年12月の事でした。今日実に多くのプロのカップルが踊っているワルツは、この日誕生したのです。

 

 

 

2. フォックストロット

 

1920年、フォックストロットの音楽のスピードは速まって行き、テンポは1分間に34から42小節でした。ランという、一拍毎ボールでステップする小さなステップはこの頃殆ど使われることはありませんでした。代わりに、シャッセで‘クロス・ビハインド(後ろにクロスする)’ステップが現れ、暫くの間スウェイをしました。暫くの、とはフェザー・ステップが登場するまでのことです。回転に関しては、ワルツのステップが多用されました。特にリバース・ターンでは。

 

この年はフォックストロットにとり、歴史的重要な年です。なぜならダンシング・タイムズが初回の非公式会議を開催したからです。約300名もの教師が出席したこの会議で、モーリスとレノラ・ヒューズが記念すべきデモンストレーションを行ないました。

 

ヨーロッパ大陸では教会とプレス新聞がモダン・ダンシングは下品だと激しい攻撃をしていましたが、それにはそれ相当の理由もありました。そうした事態がイギリスで起きないよう、非公式会議が招集されたのです。

 

教師達の同意:
特にディップや足を床高く上げるような異常なステップ、そして後ろから来る人の妨害となるサイド・ステップやポーズなど、これらをボールルームから根絶すべくベストを尽くします。

 

 

‘サイド・ステップ‘とは、その時流行り始めた‘シミー*’に変更を加えたもので、今後、このステップはLODに対し直角ではなく、45度の角度で使われる事が望ましいとされました。当時流行していたダンスそれぞれのベーシック・ステップを考察するための小委員会も設置されました。この小委員会は2回目の非公式会議にレポートを提出し、フォックストロットのベーシック・ステップは3種類であることを報告しました。それは、フォックストロット・ウォーク(2拍で1歩)、シャッセ、そしてスリー・ステップです。

 

1920年のこの年、フォックストロットのオープン競技会が開催され、当時全く無名だったカップル、ミス・ジョセフィン・ブラッドリーとミスター・G.K.アンダーソンにかなり素晴らしい賞が審査員から与えられました。二人が用いたステップは大変シンプルなもので、ウォーク、スリー・ステップ、クロス・ビハインドとサイド・ステップでした。サイド・ステップはLODに対し45度に使い、足をゆっくりドラッグし、チェンジ・オブ・ディレクションに良く似ていました。二人は第1回‘アイボリー・クロス全英選手権’でも引き続き成功を収めました。

 

この競技会が大成功裏に終わったため、‘アイボリー・クロス’は同じような大会を企画し、ロンドンと他の幾つかの州センターで予選を行い、最終戦なるものが行われたのは1921年12月9日のことです。これら3つの競技会の結果、今まで無名だったミス・ジョセフ・ブラッドリーがたちまちダンスの権威となり、その日以来、彼女はきわめて優秀なダンサーとしての地位を確保し、そして、モダン・ボールルーム技術における一流指導者の一人となったのでした。

 

私達は今、最初の大きな国内大会(デイリー・スケッチ社主催)が行なわれた時期に、そして、モダン技術が確かなものへと形作られた時期に近づきつつあります。

 

1921年には再び非公式会議が行なわれ、約300名の教師が集いました。席上、‘シミー’のステップについてかなり多くのことが論議されましたが、実際の結論は小委員会に一任され、その年の秋にレポートを提出するよう指示が行なわれました。輝かしい戦績を収めたミス・ブラッドリーのもとには、デモンストレーション(特にフォックストロットの)を依頼するかなりの数の依頼がきました。初めての事でした。

 

小委員会が10月に提出したレポート内容:
委員会はフォックストロットのベーシック・ステップは先年整理されたものと同じ、即ち、フォックストロット・ウォーク、シャッセとスリー・ステップを推奨する。これに、新しい競技会ではどこでも使われている、クロス・ビハインド、トドゥル・ムーブメント*(膝を柔らかく使う)、それに、通称‘シミー’と呼ばれていたステップを追加する。シミーではパートナー同士が少しLODに面したときに前方や後方へシャッセする形とし、肩は動かさない。

 

 

1922年に入り、デイリー・スケッチ社の競技会のせいもあり、フォックストロットが多少規格化されすぎた嫌いが見えました。前年に決められたルーティンから唯一逸脱したのは、クロス・ビハインドで徐々にドロップすることと、‘リズミック・ウォーク’が時折使われたことでした。このリズミック・ウォークは、当時アメリカで多少流行していた‘キャメル*’とか‘カレッジアット・ウォーク*’と呼ばれているものです。こうしたものが取り入れられた背景には幾つかの楽団、特にロンドンのウェスト・エンド*地域で活動していたアメリカの楽団に起因するのですが、彼らは公認された1分間に48小節より速いテンポで演奏をしており、クイックステップの登場がそこまで来ていました。

 

1922-3年におけるフォックストロットは、当時の表現では、パッシング・スリー・ステップ、両方向へのオープン・ターン、それにバックワード・ウェイブから成り立っていました。これにチェンジ・オブ・ディレクションも加えて良いかも知れません。

 

美しく、緩やかで滑らかなフォックストロットは第1次大戦の始まり以来、ボールルームを支配し絶頂期に達していましたが、それからは、一方ではブルースと、他方ではクイックステップと、その地位争いをしなければなりませんでした。ブルースにはタンゴと同じく断続的にライバルが出現しましたが、決して大きな進歩はしませんでした。その理由は、スロー・テンポの曲にはバランスと正確なフットワークが要求され、一般のダンサー達にその技術がなかったからです。

 

1922年3月になり、3種目オールラウンドのベスト・ダンサーを決めるこの国初めての大きな競技会が開かれました。3種目とは、ワルツ、フォックストロット、それにワン・ステップです。
この年後半、イギリスで世界選手権が初めて開催されました。主催者は、既に数年前から同様の催しをフランスで行なっていたライナル氏でした。選手権での種目はワルツ、フォックストロット、ワン・ステップ、それにタンゴです。出場者は2回、時には3回踊りました。選手権はアマチュア、プロフェッショナル、それに二つのミックスの3部門に分かれ、それぞれの部門での優勝者と2位、3位の者が共に世界選手権の決勝を踊りました。

 

 

 

3.タンゴ

 

第1次大戦後のタンゴの話ですが、イギリスで見る限りやや期待はずれでした。1913年にはどのホテルでもタンゴ・ティー・パーティーが開かれ、劇場の半数はスペシャル‘タンゴ・マチネ*’を行い歓迎したものですが、大戦後はそのような大きな人気は起こりませんでした。1ダースほどもあったタンゴのチームもなくなり、時折教師によるデモンストレーションが行なわれる位で、タンゴの豪華ショーは終わったのでした。

 

実際の所、戦争がヨーロッパに及んだときは、流星のように名声を得始めていたフォックストロットを除き、他の総ての踊りは消え去ったのでした。ワルツは時々踊られていました。そしてタンゴは完全に消え去ったように思われましたが、光の消滅は一時的だったのです。停戦後1、2年し、パリでダンスに対する規制が解除され、再びタンゴが最も人気のある踊りになったことを知ったイギリスのダンサーたちは大変驚きました。

 

しかし、そのタンゴは洗練されたタイプになっていました。当時のものには、次のように書かれていました。「音楽自体に明らかな特色の変化が見られる。ビートは以前より平均化され、抑制されている。伴奏にもより多くの変化をつける傾向がある。一般的に大変スムーズになった。この進歩は、おそらくダンススタイルの変化のようなものにより引き起こされたのだろう。ガウチョの広大な私有地やボカ地区*カフェのもつ異国風な原点は、さほど天真爛漫でないヨーロッパの文明基準に従い作り変えられた。」

 

新しい形のタンゴは徐々にパリからドーバー海峡を越えロンドンへ渡り、沢山の教師達の手で、そして少数のダンスをする場所で、その特色が形成されて行きました。とにもかくにも、少なくとも教師達には充分興味がもたれました。というのも、1912年来、タンゴの強力なサポーターだったダンシング・タイムズは1922年5月に‘タンゴ・ボールズ’と銘打った競技会を開催し大成功を収めたからです。これはダンシング・タイムズが成功を収めた最初の催し物になりました。競技会にはイギリス各地から約300名の教師達が参加しました。最大のアトラクションはマージョリー・モスとジョージス・フォンタナによるタンゴのデモンストレーションで、この二人が競技会の審査を行ないました。

 

デモンストレーションでは5つのフィガーが使われました。下に掲げるものが、当時の記録にある大まかな記述です。

1.シンプルなウォーク: 足の裏を使う独特のドラッグを用いた。

2.アルゼンチン・ウォーク: 右足、左足、右足を横に、左足を右足に閉じる。

3.プロムナード(ほんの少ししか開かない): 左足を横に、右足が左足を超える、左足を横に、右足を左足に閉じる。

4.デミ・ブエルタ: 一番良い表現はワルツのリバース・ターンを半分踊り、左足を右足前にかけて終わる。

5.レース・ステップ: いろいろな方向へ行なうウォーキング・ステップ。

 

 

イギリスのタンゴ事情として次にくる出来事は、パリの主要な主唱者の一人、カルロス・クルズ*がロンドン訪問したことです。彼はイギリスのタンゴにかなり大きな影響を与えました。

 

1922年10月、ダンシング・タイムズ呼びかけの非公式会議に300名以上の教師達が参加し、タンゴについて討議しました。主たる講演者はライナル氏で、戦前と戦後における音楽の違いを説明し、ピエール氏は幾つかのステップを披露、クルズ氏とフォンタナ氏は、当時パリで使われていた一般的なシーケンス・ダンスのステップを踊って見せました。

 

この会議の結果は遠大でした。新しい音楽のみを使うこと、最適テンポは1分間に30小節、また、足はまっすぐにしトウを外へ向けないこと、などが合意されました。(この声明に驚かれるかも知れませんが、1922年当時はまだモダン・ボールルーム技術の成文化はされていませんでした。)

 

総てのフィガーははっきりした小節数で終わることも決められました。これにはプロムナードは含まれません。プロムナードでは1小節半使用し異なるからです。

 

この時からイギリスにおけるタンゴが安定したと言う事ができるかも知れません。

 


(この項おわり)

 

 

 

「モダン・ボールルーム・ダンシング」
(ビクター・シルベスター著/神元誠・久子翻訳/白夜書房)
2005年12月出版
原書名:Modern Ballroom Dancing (Victor Silvester)

 

 

世界で60万部以上の販売実績を誇る、ボールルーム・ダンス本のトップセラー。1922年の第1回世界プロフェッショナル・ボールルーム・ダンス選手権のチャンピオン、ビクター・シルベスターがダンスの歴史を遡り、スタンダード・ダンスの起源と発達を語る。実習編では、初心者にも適した踊りから上級者向けまで詳しく解説。

 

ビクター・シルベスターは楽団を率いていたことでも有名ですし、同様に、ストリクト・テンポを確立した人としても名が知れ渡っています。私がダンスを始めた時にも、イギリスからビクター・シルベスター・グランド・オーケストラのLPを何枚も買い求めていましたので、そのように著名で偉大な人が書かれた本の翻訳をさせて頂く機会を得たことは、この上なく光栄でした。

 

神元誠・久子