MBD 1.ふたつの技術の発達

投稿者: | 2020年2月4日

ビクター・シルベスターのモダン・ボールルーム・ダンシングから「1.ふたつの技術の発達」をお届けします。

第一章 歴史
1.ふたつの技術の発達

The Development of the Two Techniques

 

*印:「訳者のノート」参照。

 

1 その昔

 

りを踊りたいと思う心は人類の原子的な本能のひとつです。食べる、飲む、愛する、を除くとダンスはその他の何よりも古く“リズムは生命”と言われています。そして、リズムはダンスの基礎なのです。

 

感情が刺激となって身体を動かすのは事実です。人々は文明や生い立ちの中で、この自然な関係を抑圧するよう教わりますが、その原始的な欲望はいつでもそこにあるのです。言語を持たない有史以前の人々は感情を体の動きで表わし、原始時代の洞窟壁画は人々が踊る様を生き生きと描いています。そうした踊りはほとんどいつでも心の底の想いや希望を動きにしたパントマイムでした。

 

時が過ぎ、言語が発達し、差し迫ったマイムやジェスチャーの必要性は無くなりました。しかし、そうした先人達の表現方法は、初めは形式的に使われ、そして伝統へと変わり、種族の習慣の一つとして残り、時としてそうしたものの起源が忘れ去られても残り続け、フォーク・ダンスの基礎となりました。

 

感情に合わせて体を動かしたいとする欲望は、いかに抑え付けられようと、人間が生き続ける限りなくならないのは生理学上の事実です。リズムの持続がセックスや生命そのものと密接な関係にあるのは明白で、リズムと運動が一緒になってダンスが生まれます。

 

リズムに合わせて体を動かしたくなる欲求が人間のもつ本能と結びつき、暗黒時代という淀んだ歴史の時をも越えてフォーク・ダンスの原型を継承してきたのは疑う余地のないところです。ペルギニ氏は彼の著書「ダンスとバレエの野外劇」の中で、次のように書いています。「初期の暗黒時代や中世を通し、ダンスはどの国にも、伝統的フォーク・ダンスとか国の踊りとして見られます。特にイタリア、フランス、イギリスのほとんどの教会は、祭り日にダンスを主要な催し物としていました。確かに暗黒時代や初期の中世においてダンスの活気は少なかったかも知れませんが、決して消滅はしませんでした。その長い間(おおよそ紀元の始まりから14世紀の間)におけるダンスがどのような物だったか知られていません。分かったとしても、私達が知る古代ギリシャ程ではないでしょう。ギリシャ時代のダンスは素晴らしく豊かに描写されていますが、そのような生き生きとした絵画が残されていないからです。当時流行のダンスやその人気を示す重要な証拠が、聖職者の許可書および禁止令の形で信憑性ある記録として見られるのは14世紀に入ってからのものになります。」

 

初期ボールルーム・ダンスに関する信頼置ける情報となるのは16世紀末、ジャン・タボロットと言う一人の牧師が1588年、トアノ・アルボーのペンネームで発行した‘オーケソグラフィー’という本になります。彼の作品はシリル・ボーモントが仏語から英語への素晴らしい翻訳を行なっており、ダンスの教師は皆さんご存知の事と思います。

 

アルボーは、かなり荘厳で長い間席捲していたバッセ・ドンスという踊がブランという、もっと生き生きとした踊りへと徐々に移行した時期を過ごしました。各地方にはそれぞれ独自のブランがあったというのはとても興味深いことです。アルボーが詳細に述べているガボットはプロベンスのブランですが、もともとはガーブ地方(フランス)の原住民の踊りでしたし、メヌエットはポアトー地方(フランス)のブランでした。その他、アルボーが書き残した中には、パバーヌとガリアルデのダンスがあります。シェークスピアはガリアルデが5歩のステップから成り立っている事から、シンク・ペース*と呼びました。

 

アルボーが踊りの技術を書いた当時においても、踊りの師匠たちがゆっくりながらも技術の確立をしていましたが、しっかりとした規則が初めて確立されるのは、ルイ14世により創立されたロイヤル音楽舞踏アカデミーのメンバーらにより種々のダンスの手法や5つの足のポジションが公式化されてからのことになります。当時はメヌエットやガボットの最盛期で、1650年になり、もともとポアトー地方(フランス)の小作農や民族の踊りだったメヌエットがパリに紹介されました。それにルュリが音楽をつけると、王様が公共の場で踊りました。メヌエットはその頃から18世紀終わりまで、ボールルームを独占した踊りと言えるかもしれません。

 

フランスのルイ14世時代に披露されていたバレエは、メヌエットと当時の他の踊りなど、幾つかの出し物から成り立っていましたので壮観でした。それ故に、ある程度芸術的技術の上に確立されたものでなければならなかった点でも目覚しいものでした。例えば、両脚は最も美しいラインを見せるため外に開かなくてはいけませんでしたし、アントルシャやカブリオルのような装飾的ステップが多く使われました。

 

バレエとボールルームの明確な分かれ目は、バレエにプロが登場し活躍の場を宮廷から舞台へと移行したときにできましたが、バレエの技術はその後2世紀に亘りボールルームに影響を与え続け、エリザベス朝の終わりでも、ダンス教師は舞台用に使われた両脚を外に開く5つのポジションを基本に教えていました。

 

 

2 現代

 

バレエが舞台へ移行するとその技術は大幅な質的向上を計りました。一方、ダンスサロンはダンス教師(バレエも支配していた)の指示に従っていましたが、そこには新しい技術の前兆がみられました。しかしそれが出てくるまで、約250年待つことになります。

 

現代風の踊りが最初に見られたのは1812年、今日のようなホールドがワルツでお目見えしたときです。当時、そのホールドが巻き起こした抗議の嵐*については、私達が良く知るところのものです。

 

ワルツの起源については異なる見解がありました。フランス人はワルツの起源を3拍子で回りながら踊るボルタ*としています。ボルタはアルボーがオーケソグラッフィーに詳しく書き記す少し前にイタリアからプロベンス地方に入ってきた踊りです。シェークスピアはスコットランド女王メアリーもエリザベス女王も、このボルタを好まれたと書いています。ボルタでは男性が女性を持ち上げてぐるりと回しますが、もしアルボーを信じるなら、それは荒っぽい踊りだったようです。今日においてワルツの起源は、1780年頃、南ドイツで起こったレントラー*の踊りとするのが一般的です。

 

キングス・シアターのダンス教師だったイギリス人のトーマス・ウィルソンは、1816年発行のワルツに関する本で次のように述べています。 “ワルツはドイツで発祥した踊りの一種、始めはドイツ九大勢力のひとつのシュワーベン地方に登場。次第にその周辺地域へと伝わり、後にはヨーロッパ大陸に浸透した。本来の踊りの手法が大きく改善されたばかりか、旧式の原理に多くの追加が行われ、最もファッショナブルで感じの良い踊りの一つに変わった“

 

18世紀の終わりから19世紀の始めにかけてのワルツは、一般的に3/8拍子の音楽で踊られていましたが、まだ、順番が決められた踊りでした。カップルは部屋の周りに立ち、お互いに相手とホールドしましたが、通常は手を取るのみです。そして数種類のフィガーを使いました。それはウィルソンの本の図版でも良く分かりますし、1802年の古い印刷物で、‘パリへの快楽パーティー’と銘打ったパンフレットや、1806年に発行されたトーマス・ローランドソンによるスケッチにも見ることができます。

 

現代のようなホールドをするワルツのルーツは1812年頃の英国に見ることができ、それは「魔弾の射手」や「オベロン」で知られるカール・マリア・フォン・ウェーバーと言う作曲家が、あの有名な「舞踏への勧誘」を書いた頃で、グローヴ音楽辞典*から引用すると,“円舞曲を絶対音楽*の領域に取り入れさせたのが特徴”となります。

 

ワルツはとてつもない反対にも遭遇しました。‘英国社会においてドイツのワルツが紹介されたときほど大きな反響を巻き起こした事件はなかった’と、当時の人が書いています。‘人々の間には不安が広がり、ワルツをけなし、母親はワルツを禁止し、そして総てのボールルームは反目と論争の舞台となり、嫌味な意見が飛び交い、公共の場に掲げられた風刺文には、若い女性はそうしたレクリエーションを思いとどまるようにと書いている’と。バイロン男爵のダンスについての所見は、私達に馴染み深いものです。(ホラス・ホーネムのペンネームの)彼がカントリー・ダンスでも見学しようとロンドンのボールルームへ入っていくと、‘そこには、苦楽を共にしている自分の彼女が騎兵隊の格好をした大きな紳士に抱かれながら、同じ千枚通しに突き刺された二匹のコガネ虫のようにしっかり一つになって、ぐるぐる回り、いまいましいシーソーのように上下運動を繰り返しているではないか。’

 

他の著名な人々も彼に同意見でした。‘よかった’とW.エルフォード卿はミス・ミットフォードへ書きました。1813年のことです。‘あなたがワルツについて私と同じ考えであって。もう、H.エングレフィールド卿の詩を読まれましたか? 私には適切な所を突いていて完璧に思えます。その詩は、女主人とワルツを踊っていた男に腹立たしく向けられているように思われます。

 

 なんということだ、私の慕う少女が他の者に抱かれるとは!
 なんということだ、彼女の吐息の香りを他の男が味わうのか?
 なんということだ、踊りながら他の男に膝を押し当てられて!
 なんということだ、息を切らし私以外の人にもたれているとは!
   彼女はあなたのものだ、
   上質の青いブドウを搾り
   バラのつぼみから震えるような雫を振り落としたのだから。
   あなたが触れたものをお連れなさい。
ワルツを踊るかわいい人よ、
さようなら!

 

こうした状態が束の間続いたものの、世の中はこの新しい踊りに降伏したのです。それはロシアのアレキサンダー皇帝が特権階級に限られた高級クラブ、アルマックス*の部屋でワルツを踊っている所が見られた時からでした。

 

現在私達がモダン・ダンスと呼ぶ踊りに近づく、次なる進展があったのは1840年のことです。幾つかの新しいダンスが登場し、その中にはポルカ*、マズルカ*、そしてショティッシュ*も含まれていました。同時に、アントルシャやロンデジャンのように、それまで装飾的だったステップは総て省かれる強い傾向が見られました。そうしたステップはカドリール*や他の踊りの中にふさわしい場所を見出しました。当時有名だったダンス教師のセラリウス*はそうした改革の先導者の一人で、彼の本「ファッショナブル・ダンシング(1848年)」の中で、とても興味深いコメントを残しています。

 

“今日の若者は踊らないで歩いているだけとしばしば非難されるが、かつてのアントルシャやロンデジャン、その他の複雑なステップを拒むことがそれ程間違っていることなのだろうか。そうしたステップは私にさえ思い出すのがかなり大変で、殆どは不完全で、しばしばとてつもなくこっけいなのにも関わらず、毎日の舞台の上で完璧な芸術風に披露されているものなのに?”

 

ビクトリア朝の終わりの頃、ボールルーム・ダンスは停滞傾向にありました。多分に新しい技術が出てこなかったことに拠ると思われます。ニューヨークからはツーステップ*が入ってきていましたが、それもまだ形式偏重のシャッセ・ア・トロワ・パ*で、ワシントン・ポスト*は一時期最盛を誇り、バーン・ダンス*にはある程度の人気がありました。しかし、20世紀まで待つ必要はありませんでした。ボストン*の名で知られた、新しい方法で踊るワルツやラグ*の登場がそうした停滞期に新風を吹き込んだのでした。こうした新しい踊りの登場は、それまで、多くのハンガリー色帯びたオーケストラが演奏する、果てしなく続く早いテンポのワルツにうんざりしていた若い人たちに興味を起こさせたのです。こうしてボールルーム・ダンスの寿命がのびたのでした。

 

1914年の大戦前にクラブで踊っていた若い世代は、しかしながら、教師たちが教える古い5つのポジションとか愛らしい人工的な技術に反抗したのです。昔と同じ形が舞台で続けられている間に起こった第1次大戦はこうした若者の反乱に拍車をかけ、踊っている人達によって(念のために申し上げると、ダンス教師によってではありません)多少ウォーキングの自然な動きに基づいた、自由気ままな、お好きにどうぞ風のスタイルが作り出されたのでした。1914年に現れたフォックストロットはそうした反乱に風を送り、ぐらついた昔風の技術を消し去ったのでした。

 

混沌とした状態が暫く続きましたが、休戦から数年すると英国人のもつ規則を愛する心が主張し始めたのです。1920年、ダンシング・タイムズ*の呼びかけで開かれた‘教師達の非公式会議’には多くの教師達が参加し、フォックストロットとワンステップ*のベーシック・ステップを標準化する試みを率先して行ないました。新しいボールルーム教師たちによる支配層の出現です。こうした教師達は、古い伝統と決別し、自然な動きを基に足を線上に動かす現代のボールルーム技術を発展させ成文化した、世界最初のダンサー達なのでした。

 

彼らは英国ダンス教師協会(ISTD)*‘ボールルーム支局’の最初の委員会を創立したのです。彼らが成文化したスタイルは以来、大きく発展してきました。今日私達が‘英国スタイル’と呼んでいるものです。そしてアメリカは例外かも知れませんが、この踊りは世界中のボールルーム・ダンスに影響を与えたのでした。

(この項おわり)

 

改定へよせて <<  >>> 2  ダンスの起こり

 

 

「モダン・ボールルーム・ダンシング」
(ビクター・シルベスター著/神元誠・久子翻訳/白夜書房)
2005年12月出版
原書名:Modern Ballroom Dancing (Victor Silvester)

 

 

世界で60万部以上の販売実績を誇る、ボールルーム・ダンス本のトップセラー。1922年の第1回世界プロフェッショナル・ボールルーム・ダンス選手権のチャンピオン、ビクター・シルベスターがダンスの歴史を遡り、スタンダード・ダンスの起源と発達を語る。実習編では、初心者にも適した踊りから上級者向けまで詳しく解説。

 

ビクター・シルベスターは楽団を率いていたことでも有名ですし、同様に、ストリクト・テンポを確立した人としても名が知れ渡っています。私がダンスを始めた時にも、イギリスからビクター・シルベスター・グランド・オーケストラのLPを何枚も買い求めていましたので、そのように著名で偉大な人が書かれた本の翻訳をさせて頂く機会を得たことは、この上なく光栄でした。

 

神元誠・久子