#012 ラテン・チャンピオン雑学2 レオナルド・パトリック

投稿者: | 2020年1月9日

ダンスビュウ2017年3月号に「ラテンレッスン雑学」という記事を書かせていただきました。原稿依頼を受けたとき、なぜか「ラテン・チャンピオン雑学」と思い込んだたため、記事はチャンピオン達の話になっています。そこで、このブログでは「思い込みの」のタイトルをそのまま使い、オリジナル原稿に手を加えて紹介していきます。「ラテン・チャンピオン雑学2」では妻の恩師、パトリック先生の思い出を記録します。

 

#012 ラテン・チャンピオン雑学2
レオナルド・パトリック(Leonard Patrick)

 

•ダンスジャーナルより死亡記事
•恩師のことば
•動画
•お墓参り

 

セ・ラビ(C’est la vie)
Leonard Patrick

レオナルド・パトリックの名は、ほとんどの人には馴染みないでしょうが、彼とパートナーのドリーン・ケイは1954年のインターナショナル選手権、1959年のUK選手権のチャンピオンです。2人の名前は「ラテンダンスの素晴らしいもの」の代名詞となり、1962年クリスマスにはバッキンガム宮殿で女王陛下とフィリップ殿下にパソ・ドブレを披露、お二方にご紹介授かる誉も戴きました。(出典:Dance Journal Feb. 1987)

 

 

 

パトリック先生は妻の恩師であり、私たちのダンスの旅の原点にあたる人です。彼は1986年9月13に他界されました。私たちが帰国したのが1975年春の事 ―― 本当にお会いする機会を失ってしまったことが心残りでなりません。

訃報は “ポッター” さんという知らない方がパトリック先生の遺品の中から私たちの事を知り、親切にも手紙をくださったのです。後日郵送されてきた雑誌「ダンスジャーナル」には彼女の回想録が掲載されていましたので、私たちが尊敬する先生の事を少しでも皆さんに知って頂きたいと思い翻訳してみました。

ポッターさんの記事を読みながら、私は、レッスンが良く分からないといって泣きながら帰ってきた妻の事や、私たちの帰国が近づくにつれ寂しさを増した先生の顔を思い出しました。

 


Leonard Patrick

「DANCE Journal No.220 February 1987」よりObituary(死亡記事)

 

Leonard Patrick

レン(愛称)は発病後まもなくロンドン市内のウェストミンスター病院にて9月13日に亡くなりました。痛みを表に出さない人で、亡くなる4週間前までスタジオ188(*ハマースミスにあるフィリス・ヘイラー女史の教室。番地名だけで分かるほど有名だった)で働いていたのですから、彼の死は親しい者にとっても大変な驚きでした。

 

13歳のとき兄妹と行ったパーティーで初めてダンスを踊った彼は瞬く間にベーシックを覚え、教室に通い始めることになります。努力家で、勘もよく、天性のリズム感のよさもあり、やがて地区大会で優勝を重ねるようになりました。その才能は一流の先生に認められ、やがてロンドン市内で教える傍ら上級指導を仰ぐことになります。

 

戦時中は英国空軍に従事し、復員後再びダンスの道を歩みます。1950年、ケンジントンのヘイラー女史の元に加わり、第一男性補佐役として働き始めました。ドリーン・キイ(Doreen Key)とパートナーを組むのはそれから3年後の1953年の事です。この二人の組み合わせはラテンダンスにおけるあらゆる「素晴らしいもの」を意味する言葉同然となります。主要なインターナショナル・プロ・ラテンアメリカンのタイトルを殆ど獲得し、その中には1959年の世界選手権も含まれていますし1962年にはデュアル・オブ・ザ・ジャイアンツ(巨人の決闘)でも勝利を収めています。

 

例え一歩の事でも納得するまで何時間でも練習する完全主義者でした。自分たちのルーティンは全て自分で創るという優れた振り付けの才能を持っていました。休暇は主にスペインで過ごし、闘牛見物やスペイン舞踏にふけたりすることが多かったのですが、この二つが新しいバリエーションや優雅さと気品溢れる本物の動きの踊りを生み出したのでしょう。特にパソに才能を示し完璧に自分の物としていました。サンバにも定評があり、サンバ・ロールといえば「彼」というほどでした。他にもドリーンの為に自ら素材を選んで競技ドレスをデザインしたりもする、芸術的才能の持ち主でもありました。

 

1954年3月17日、英国プロ・ラテンアメリカン選手権にて勝利を収めてから6月までの間、立て続けに3つものタイトルを獲得し、ラテンの世界を制覇した二人ですが、モダンも非常に得意で、エイト(*8種目)やナイン(*9種目)ダンス競技でも好成績を残しました。数多くの国際大会に英国代表として参加した二人はヨーロッパで大人気でした。国内外の競技にデモ、そして指導と広範囲に活躍した彼らの経歴には次のようなことも含まれています――

 

●クイーン・エリザベス号を含むあらゆる客船でダンスの指導とデモをし、1964年にはカロニア号で3ヶ月にも及ぶ長旅をしています。
●BBCのシルベスター・ダンシング・クラブやATVのメロディ・ダンスに頻繁に出演。
●1962年クリスマスにはバッキンガム宮殿にて女王陛下とフィリップ後退にパソ・ドブレを披露。お二方にご紹介授かる誉も戴いております。

 

現役の日々はやがて遠ざかりますがハマースミス教室での彼の指導は続きます。マーディ・クラブ(*教室で火曜日に開かれていた定期的な仲間の集まりを指すのではないかと思う)や土曜の夜のパーティーなどでカウンターの中から飲み物をサーブしつつ冗談を言い、気の利いた話をする彼の周りには人がたくさん集まりました。教え子の中には彼をダンスの先生としてのみならず、人生の師と仰ぐ人も多く、そうした人々と生涯のお付き合いをしていました。気性の短いところはあったものの、繊細で、温和で、親切で、そして自分の好きなように人生を歩んだ人でもありました。そんな彼が病院で治療事故の犠牲となったのは1980年の事。3ヶ月の入院期間中必死に戦いますが、元の体には戻りませんでした。

 

ダンス以外にはテニスが趣味でした。ウィンブルドン大会には必ずと言っていいほど出かけ、プロの試合を熱心に観戦していました。 しかしどちらかといえば自らプレーする方を好み、陽の光や新鮮な空気を満喫していましたが、懸命に上達を目指した点ではフロアーの上と全く同じでした。亡くなる4週間前のテニスが彼の最後のゲームになってしまいました。

 

多才で、賢く、愉快な人だったレンは人生を愛し、こよなく人を愛した人でした。笑うことが大好きな、魅力一杯の人でした。読者のあなたには、きっとあなただけの思い出があることでしょう。 (D.E. Potter)

 


■恩師レオナルド・パトリック氏のことば

 

■恩師レオナルド・パトリック氏のことば
(神元久子/「サークルで上達するボールルーム・ダンス(ラテン編)」より。一部書き直しあり)

 

ロンドン、ハマースミス188――フィリス・ヘイラーズ・スクール・オヴ・ダンスィング――そこで2年半教えを受けたパトリック先生は、当時50代半ばの白髪紳士でした。元ラテン・ワールド・チャンピオンにも拘わらず、マンツーマンのレッスンをなさっていました。

イギリスのダンス界でも少し風変わりな方ということは、外人の私にも教室内の雰囲気から伝わってきたくらいです。白人特有の人種の偏見もなく、日本人の私を熱心にご指導くださったのは本当に有難いことでした。

ダンスになると、ご自身にも非常に厳しく、「今はダイエット中なんだ」とか、片足トウでしっかり高くバランスを取る練習やスピンの練習をなさりながら、満足が行かないと「ノー・グッド」と言いながら、首を横に振ったりということもありました。それでも街中を歩く後ろ姿は、白い髪以外はまるで若者のようでした。

 

当時、若くていろいろ悩みの多い私に、
「人間やらなければならない時はやらなければならない。何かことを成そうとしたら、他の何かを諦めなければならない」と。

 

また、私の帰国で淋しくなると言いつつ、「セ・ラビ(それが人生)」と漏らしたり・・・・・・。

 

以来、事ある毎に思い出す先生の言葉です。私にとってパトリック先生はダンスのみならず、人生の師となりました。

 

(上の写真は帰国前、パトリック先生から頂いたもの。 下の写真は帰国前、感謝の気持ちを込めてパトリック先生をロンドン市内の日本食にお連れした時のものです)

 


 

■パトリック先生の動画

 

■パトリック先生の動画

YouTubeでパトリック先生とドリーンさんの踊りを見つけました。European Dancing Grand Prix – Latin American 背番号4です。
こうした貴重な映像をインターネットで見ることができる時代の中にいて、とても幸運に思います。そして、貴重な映像をシェアして下さる人がいて、とてもあり難いことだと思います。

 

■お墓参り(at Putney Vale Cemetery)

 

■お墓参り(at Putney Vale Cemetery)
ポッターさんからお便りを頂いてから3年後、娘たちと長旅ができる時期を待ってお墓参りに行きました。(左後ろが案内してくださったポッターさん)

 

ポッターさんはこの墓地にヘイラーさんも眠っていることを調べておいて下さりました。ヘイラーさんはこの木の周りに散骨されていました。

 

ハッピー・ダンシング!