#014 ラテン・チャンピオン雑学4 ルディ・トラウツ(Rudi Trautz)

投稿者: | 2020年1月9日

ダンスビュウ2017年3月号に「ラテンレッスン雑学」という記事を書かせていただきました。原稿依頼を受けたとき、なぜか「ラテン・チャンピオン雑学」と思い込んだたため、記事はチャンピオン達の話になっています。そこで、このブログでは「思い込みの」のタイトルをそのまま使い、オリジナル原稿に手を加えて紹介していきます。「ラテン・チャンピオン雑学4」はルディ・トラウツ氏のお話です。

 

#014 ラテン・チャンピオン雑学4
ルディ・トラウツ(Rudi Trautz

 

毎年1月に開催されるUK選手権(UK Open)前日には、レクチャーとゲストを招いての対談(Audience With)があります。2010年のゲストは、1967年から4年連続ブラックプールで優勝しているルディ・トラウツ(Rudolf & Mechthild Trautz)氏でした。この時の映像を見て書き下ろしておいた原稿をがあります。自分だけで保存しておくのはもったいないので、面白そうな部分を切り出して紹介します。

 

ダンスビュウの記事には私の好きなパートを簡潔に紹介しましたが、このブログではその前後の話を含めて紹介しましょう。聞き手はジョン・キミンズ(John Kimmins)氏とグレッグ・スミス(Greg Smith)氏です。また、前回の「ラテン・チャンピオン雑学3」の終わりに下のように書きましたが、その理由も明らかになります。

この(ウォルター・レアードの1963年映像)踊りを見て、「リードは凄いけど、どうしてボディの動きが少ないのかな?」と不思議に思っている人もいることでしょうが、そこには衣装の問題があったことをご存じでしたか? そのことは、また別の機会に書くことにしましょう。

 

追記 2021/11/30対談の英語書下ろしをPDFにしました。 English Data

 

 

■ゲストの持つタイトルの多さ!

Greg:皆さんこんばんは。これから行われるコングレスも素晴らしい物になることでしょう。これまでの素晴らしいレクチャーで多くの情報を得ることが出来ましたが、これから行われるのは、ある特別な人の人生についてです。彼のダンス人生について、ここで語って頂けることは大変光栄なことと思います。その人が持っているタイトルの多さに驚いてしまいますが、最初にその一部を読み上げてみましょう。

  • ドイツ選手権のラテン、ボールルーム、そしてテン・ダンス優勝28回。
  • ヨーロッパ選手権でラテン優勝7回とボールルーム1回。
  • 全英プロ・ラテンで4回。
  • 全英オープンと世界選手権で入賞。
  • UKスター選手権で3回。
  • ワールドカップ、プロ・ラテンで4回。
  • ワールド・プロ・ラテン選手権4回。
  • ドイツのゴールデン・タンス・シューズ賞受賞。
  • カール・アラン賞受賞2回。
  • BDFのビル&ボビー・アウオード。
  • DFIアウォード。
  • 三笠宮杯。
  • シルバー・ロールドイツ連邦大統領杯。

たまげた物です。そして、コーチャーとして多くのチャンピオン達を教え、かつ、メジャーな競技会でも審査員を務めています。お呼びしましょう。ルディ・トラウツ氏です。

Rudi:一言いいですか? 思うに、ゲストの選択を間違えたのじゃないですか? (観衆)の半分は帰って行くよ。

Greg:そんなことありません。お手洗いタイムですよ、きっと。

Rudi:そうだといいですけど。

 

 

■ディナージャケットを使った最後のチャンピオン? 

Greg:さて、あなたとメチ(奥さん。Metch= Metchild)がサンバを踊っているDVDをごらん頂きましょう。

<映像>

Greg:今のサンバの映像中で「フライング・エンジェル」と「ホース&カート」を踊っていましたね。ホース&カートはジョンと私のお好みでよく使った物でしたが、こうしたステップを復活させるべきと良いと思いますか?

Rudi:どうでしょう。正直な所(ホース&カートは)今のラテン・アメリカンのスタイルには合わないでしょうね。やるにしても、完全に違って見えるように作り替える必要があるでしょうね。それが良いかもしれません。

Greg:現代的なひねりを入れて。

Rudi:ですね。

Greg:そうなるかも知れませんね。

John:皆さんもディナージャケットを着ていたのに気づかれたと思いますが、あの頃がディナージャケットの流行が終わりの頃だったんでしょうね。あなたはプロでディナージャケットを使った最後のチャンピオンでした?

Rudi:そうかも知れません。それにしてもディナージャケットは動きにくかったです。腕を上げたり色々しなくてはいけないのに、ジャケットが襟より上に上がらないようにしなくてはダメでしたしね。動きが制限されて汚くなってしまいます。ウルフガング・オピツ(Wolfgang Opitz)がキャットスーツを着始めた時は嬉しかったですね。本当に大きな違いでしたから。

 

■この世で最高のラテン音楽 

Greg:1967年の世界プロフェッショナル選手権がオーストラリアのメルボルンで開かれました。当時私は若いジュニアで、有名な人達や偉大なダンサー達からプログラムにサインをして貰いたくて、プログラム片手にうろうろ歩き回ったものでした。そのときのプログラムの写真を用意しました。皆さん、プログラムにされた沢山のサインが見えると思います。この写真がそうです。ルディ&メチ・トラウツのサインもあります。このとき初めてお会いしましたす。

(スクリーンに映像)

Rudi:私の記憶では、非常に面白い世界選手権でした。大会前の何日か、私たちはビル&ボビー達と一緒に練習をしていたのですが、本当に面白いことに、最初っから私たちは自信を持つことが出来たのです。なぜならビル&ボビーはまだルーティンが決まっていなかったのです。なにをするか、あれこれやっては口論している二人をみて、私たちは「悪くないのにね」と話し合った物です。もうひとつあります。確か大会前日だったと思いますが、大きな集まりがあり、そこで私とメチでモダンと、当時はモダンと言っていましたが、ラテンのレクチャーをしたのですが、みなさん喜んでいましたから、とても良くできたと思っていますが、そこにはジャッジの皆さんもいましたので、レクチャーを違った目で見て頂いたことも役に立ったと思っています。

試合の日が来て、メチは更衣室に。私は上に行ってバンドの演奏を聴いたのですが — 恐ろしくひどい物でした。まったくひどくて、私はメチを連れて行き、「メチ、聞いてごらん」と言いました。彼女も「うわー、信じられない」と。そこで私は彼女に言ったのです。

「黙って聞け。これはこの世で最高のラテン・アメリカンの音楽なんだ」と。

そして20分ほどそこに立ち尽くし、これは素晴らしい音楽なんだと自分たちに言い聞かせ続けたのです。

競技会が始まり会場に入ってきた選手達が音楽を聴いた時、その時の顔は想像出来ると思います。それに比べ、私たちは意気揚々と踊り始めたのです ―― 最初のダンスを、観衆を捕らえて。

それと、確かファイナルのパソで演奏されたのがサンバでした。メチが「これはサンバじゃない」と言うので、「何を言うか。素晴らしいパソ・ドブレだ」と言ってサンバに合わせてパソを踊り始めたのです。半分ほど進んだ所で、演奏が止まり、パソに変わりましたが……。そんな感じの競技会でした。

結果発表が行われた時、メチが私を引っ張って行ってくれました。私が気が転倒して口を開けたまま動けなかったからです。私を引っ張りながら「いくわよ。優勝したのよ!」と言ったのです。そんな感じで、素晴らしかったです。

 

 

■あれは君の責任だったか! 

Rudi:どこかの競技会に出たら、それはもう、殆ど次のルーティンを作らなければいけないって事なんです。なぜなら、みんな、殆ど私たちの真似をしていたのですから。一番おかしかったのは、ロサンジェルスでデモをした後で年配のカップルがレッスンに来たのです。中国系の人だったと思いますが、やってきて、パソのレッスンを受けたいと言うのです。そして、レッスンが始まって少し経ったときに、私が「それじゃなくて、その後にはこのステップが来て、次はこれ」という風に説明すると男性は不思議そうに聞いてきたのです。「どうして知ってるの?」と。「それは私の昨年のルーティンだから、よーく知ってるのさ」って。 (笑い)

あの頃はラテン・アメリカン・ダンシングの発展時期だったので、皆、他の人の真似をするのが当たり前だったんですよ。

パソ・ドブレと言えば、ブラックプールでも面白い話がありました。私たちは毎年、何か新しいことを取り入れていたのですが、ある日、「僕たちのパソは、違う形からスタートしよう」と話し合ったたのです。なぜなら当時は、じっと立った所からスタートしていたからです。そこで、私はこんな形に、彼女はこんな形に、音楽が始まる前にやった所、観客の注目を集めましてね! それが最初で、翌年から今日に至るまでパソ・ドブレでは皆、踊り始める前から形を決めていますよね。

Greg:あれは君の責任だったか!

 

 

■ビル&ボビーとの、そして、エリック・ハンコックス――

John:更なる知識を求めてビル&ボビーのレッスンを受けに行った時にビルの師匠を紹介されたのですね。大変大きな影響を受けたようですが。

Rudi:二人とは長年の友人で、デモもよくさせて貰いました。現役時代は良く競い合いましたが、仲の良い、いい友達でした。ある時、ビルにレッスンしてくれと頼むと、「良いとも」と言ってくれたのです。最初のレッスンが終わると、「君には驚いた」言うのです。

「どうして」と尋ねると「実は、君は固まった考えの人かと思っていたが、非常にオープンマインドな人なんだね」と。そこで私は「追求しようとしたら、オープンでなくてはならないでしょ」と話しました。

(この対談の前に行われた)グラハム(Graham Oswick)のレクチャーで足の事を話していましたが、かつてビルが私にこう聞いてきたことがあるのです — 「なぜ君はラテン・アメリカンのチャンピオンなのか知ってるか」と。「いや。教えて下さい」と言うと、「一番素晴らしい足をしているかさ」と言いました。続けて「どうして私がボールルーム・チャンピオンか分かるかい?」と聞いてきたので、「一番素晴らしい足ですよね」と答えると、彼は「まさにその通り」 と。

面白いことですが、私はラテンでは本当によく足の研究をしました。二人で組んで踊る前に必ずしていたことは、音楽なしで全種目、足を見ながら歩く練習をしたものです。次は音楽で。でも足だけを見て。それから組んで練習です。でもボールルームでは綺麗に使えていると思っていたので、気にしたことはありません。足の使い方は本当に大切です。

で、ジョンの質問ですが、(ビルというより)ボビーの方が「エリック・ハンコックス(Eric Hancokcs)のレッスンを薦める」と言ってくれたので、「そうおっしゃるなら、そうしましょう」と返事をしたところ、二人はブラックプール大会の前にエリックのレッスンをアレンジしてくれたのです。あの郊外の……。

 

John:フリートウッド・ベイ(Fleetwood Bay)?

Rudi:そう、フリートウッド。正直言うと、初日にエリックと口論になり、彼は私をスタジオから放り出そうとしました。そこでこう言ったのです。「いや、出てなんか行きませんよ。私のどこが本当に悪かったのか、どうぞ説明して下さい」ってね。

まあ、それがエリック・ハンコックスとの付き合いの始まりで、彼は、何というか、第2の父親みたいで、よくドイツに来てくれました。私たちが現役を引退して随分経っても、亡くなるまで来てくれました。彼がきちんと座ることが出来なくなって、スタジオでこんな風に座っている姿を思い出します。

彼の最後の方のレッスンで、突然立ち上がり、私がフェザー・ステップからスリー・ステップを踊る間、両肩に触れているだけでした。そして、「今週のレッスンはこれでお終い。帰って良いよ」と言ってから、

「今の所を、どれだけ教え続けてきたと思う? 私が死んだ後、どうする? 誰が助けてくれるんだ?」と。

不思議なことに彼が亡くなってからは、アドバイスがいらなくなりました。あの瞬間が私の耳にずっと残っているからです。

もっと早くに亡くなってくれていれば……失礼。

 

John:ニーナはあなたの生涯のコーチでしたね。バラム・ハイ・ロード(Balham High Road)の、あのとても素敵な場所で。

Rudi:最初はストリーサム(Streatham)で始まり、そうそう、素晴らしいスタジオでしたね。あそこでの思い出は、マナブ・シノダがレッスンに来た時の話です。日本では普通なのかも知れませんが、奥さんが自分の重たい荷物を全部抱えてマナブの後を歩いきました。するとニーナが最初に言ったのは、「マナブいらっしゃい。ここはヨーロッパよ。ここでは男性が重い物を運び、女性は男性の後ろじゃなく、並んで歩くの」でした。レッスン修了後、彼が荷物を持ってスタジオを出ていったので、私たちは窓から下の様子を覗っていると — 外に出てきたマナブは左右と上をチェックすると荷物を彼女に渡し、すたすた歩いていったのです。勿論、彼女は後から。あそこでの思い出ですね。

 

John:皆さんが、そうしたニーナに絡んだ思い出を持っていますよね。それがまた良い所です。他に何か特別な話はありませんか?

Rudi:ニーナとは常に喧嘩の連続でした。いつでも喧嘩でした。きっと、ラテン・アメリカンが大きく進歩していった時期だったからでしょう。

私たちはロンドンに行ったら必ず2,3回はコベントガーデン(Covent Garden)にバレエを見に行きました。いつもノートを持って行き、気に入った動きを書き留めてから練習に戻ったのです。そして、ニーナに良いアイディアがあるんだ。あれをやりたい、これをやりたいと話したのです。彼女の素晴らしい所は、生徒からも積極的に学んでいた点です。特に、ラテン・アメリカン全体がその発展途上にあったので、あらゆる情報を手にする必要があったのです。

私たちは常に新しいことに挑戦していました。そういえば、最初のルンバのレッスンでのことです。ルンバはスクエアルンバから来ていてヒップ・アクションがあるので、私たちもそれをする訳ですが、 彼女は「あら、キューバン・ルンバにヒップ・アクションはないわよ」と言ったのです。私が「えっ」と言うと、「キューバン・ルンバにはヒップ・アクションは使いませんよ」と。私は「ニーナ、ヒップ・アクションなしでルンバは踊れませんよ」と言いましたが、6週間後に訪れた時、十分なヒップ・アクションを使うことが出来ませんでした。他の人達は皆、突然ヒップ・アクションを使っていたのに! 

パソでこんな事もありましたよ。ケンティッシュ・タウン(Kentish Town)での話ですが。ニーナは常に顔を上げておけと言うんです。ご存じのようにあのスタジオにはたくさんの闘牛士のポスターが沢山貼ってありました。それぞれ色んな格好をした。(ニーナは顔を上げるためにそれらを見るようにいいましたが)私はしませんでした。すると彼女が「見てないじゃない」というので、「牛は飛ばないですよ」と切り返しました。

 

Rudi:ニーナは素晴らしい先生でしたよ。

Greg:異論はありません。さて、あなた達のチャチャの映像を用意しました。色んな有名なカップルがいますよ。ルディとメチは前の方にいて、アントニー&パウラ・グッドイヤー(Anthony and Paula Goodyear)も踊っています。他のカップルはよく分かりませんが、色々いますよ。(映像が出るまで)話をボールルームに変えますが、何かアレックス・ムーア(Alex Moore)とヴィニーズ・ワルツの話がありましたね。

Rudi:ええ。ヴィニーズ・ワルツは彼と私たちとの間で、いつも議論の的でした。彼はいつも私たちに、ナチュラル・ターン、リバース・ターン、左回転のフレッカール、そこから右回転のフレッカール、それにチェック以外を使ってはいけないと言っていました。私たちはナチュラル・ターンとかリバース・ターンなどに入る時にある種のステップをつかい、そうすることで常に音楽の1から入れるようにしていました。アレックスは、「いいかね、忠告だがそのフィガーは使っちゃいけない。今度使ったら点を入れないからね」。それで私は、「アレックス、それはあなたの仕事だから良く理解できますが、私の仕事は音楽に合わせて踊ることです。リバース・ターンで音を外して踊ることは出来ませんから」。アレックスは点を入れない所か、一番を入れてくれましたよ。

John: いい話ですね。実に。

Greg: チャチャの映像の準備が出来たようです。

(映像が映し出される)

 

Rudi:みんな、笑っているよ!

Greg: たしかノルミック(Normic)も後ろにいたのでは?

Rudi:たぶん そうですね。

観衆:フィッシャー(Fisher)もいるわよ。

Greg: フィッシャーもいましたか? それと背の高いカップルはマーセル(Marcel)と思う。リチャード・グリーブ(Richard Gleave)も。

Rudi:たしか、ワールドカップでしたね。マインツ(Minz)で開かれた。

John:アレックス・ムーアの話に戻って、あのアンブレラの話って何ですか?

Rudi:アレは最初、全く分かりませんでした。競技会を見に来た彼が、その後で出したレターサービスの中で「彼のスタイルは閉じた傘のようだ」と述べたのですから。「参った。あのステップはそんなにひどかったのだろうか」って、もう、ドキドキでしたよ。するとニーナが、「それは素晴らしい誉め言葉よ。くるっと巻いて閉じた傘はイギリスの典型。だからあなたの踊りは典型的な英国スタイルと言う意味なのよ」と。嬉しかったです。

Greg:誤解だったのですね。

Rudi:私は(自分の踊りが)そんなにガチガチだったかって考えちゃいましたよ。

Greg:実はそうだったりして。これは冗談です。次は、あなたのボールルーム・ダンスを見てみましょう。これはイギリスとドイツのチームマッチだと思いますが・・・

(映像が流れる)

John:こうして振り返るとあの頃のドレスは踊りにくかったかも知れませんが、あの頃の方が女性の踊りにスピードが感じられる気がしませんか? 私だけかも知れませんが。

Rudi:そうですね。今のドレスは長すぎる時があります。足も足首さえもそこにあるのが分かりませんから。でもお願いですから、あの頃のドレスでは踊らないで下さい。どうか、お願いします。私はラテンよりボールルームの方が好きだったのですから。あの頃のテールスーツとドレスはひどかったです。あの頃考えがありましてね。と言うのもスカートの周囲はフリルだらけだったので、彼女に前の方は三角のオープンスペースを作ってくれといったのです。それも私たちが始めたのですが、そうすると自分の立ち位置が確保出来たのです。

 

John: あなたが始めたとはおかしいですね。。ヘーゼル(Hazel)もドレスを作る時にはそうしてましたし、キャロル(Carol)もです。二人ともちょっとしたスペースを作っていたので、そこに楽に入って行けたのです。まあ、そういうことですが、一体、何の話でしょう。

Rudi:ダンサーたちの話だよ。

John: まったく。 何の話か分かりませんね。続けましょう。あなたが引退して — あれは何年でした? 1980年?

Rudi:70年代。

John:75 or 6? 75年?

Rudi: 1970年に一度引退し、72年にヨーロッパ選手権に戻り、ラテンで優勝した後引退しました。

John:71年か72年の、ハマースミス・パレ(Hammersmith Palais)で行われたUK選手権であなたを見た記憶があります。あなたは別枠試合のヴィニーズ・ワルツで優勝し、選手権では3位に入賞したのが、あなたの最後の試合だと思っていました。私の記憶は良い方なんですよ。

Rudi: 71年に踊っていないのは確かです。それから71年の12月に復帰しました。

 

John:そのあとはコーチとして世界中でレクチャーをしたのですね。

Rudi:ええ、レッスンもデモも、その後8年位していましたね。デモもレッスンもしていて、また、そのように努めていました。実際の所、ダンスで本当にいいものを追求しようとすると1回の人生では足りないと思うことがしばしばあります。2回は必要ですね。また、特にボールルームでは競技を引退した後で一番良い踊りが出来たと思います。競技のプレッシャーがなくなり、ダンスで音楽を表現することに専念できたからです。あれは実に素晴らしかったです。だから何年も続けられたのです。

Greg: もうひとつDVDがあって、ーターとインガ・フィッシャー(Peter and Inga Fisher)もいます。

Rudi:1974,5年のものですね。

John:ルディは長年ドイツのダンス協会の会長を務め、今は名誉副会長をされています。また、WDC会長も長年勤め、現在はそこの名誉副会長となっています。そした管理職にいると大勢の人達との時間を割かなくてはならなく、何事においても、あなたのその正直で真っ直ぐな取り組みに、誰もが感謝していると思います。

Greg:そのようにして、人々がダンスに貢献することは素晴らしいことです。

 

Rudi:ええ、そうですが、まだ残念なことがあります。ダンス界の為に懸命に働き、かなり成功に近づいたときがありました。合同委員会がまだ一緒だった時があり、その時、ISTDとICBDが一つの世界団体になりかけた時があったからです。実はレオナルド・モーガン(Leonard Morgan)に、プロの関係は私とスイスのルディ・バウマン(Rudi Bauman)にやらせて欲しいと懇願したことがありましたが、ピーター・パウェル(Peter Powell)とビンセント・バルガー(Vincent Bulger)の方がアメリカで一緒にいるから良いのじゃないかという理由で断られたのです。お互い、会ったこともない二人なのに。もし、私とルディ・バウマンの二人のルディでやっていたなら、今日の問題はなかったと思います。確実にチャンスを逸しました。解決の役に立てなくて本当に残念です。皆さんご存じの様に、今の状態は良くないですから。

John:本当に、二人のルディがもう一度一緒になって欲しいですよ。

Rudi:そうだね。でも、もはやルディ・バウマンは同じ考えじゃないんですよ。

John:大丈夫じゃないかな。

Greg:ロマンチックな話に移りたいと思います。あなたはマチナと出会い結婚しました。

(拍手)

Greg:息子さんのニコラス(Nicholas)、お嬢さんのニナ(Nina)を大変誇りに思っていると思います。さて、いつ、どうやってマチナと出逢ったのですか? そして、もうひとつ。お嬢さんが競技に出ているのを親としてどんな風に見ていますか?

Rudi:実は長いこと知っているんです。マチナが小さいときから知っていて、永い黒髪の、とても可愛い子だったんですよ。そして、彼女がプロの試験のためのトレーニングにアウクスブルグ(Augsburg)にやって来て、一年ほど滞在していた時に、まあ、そうなって一緒になったのです。

(笑い)

Rudi:いまの話の通りで、私たちのダンススクールの下にビール貯蔵庫がありまして、私も彼女もトランプをしていたので、殆ど毎晩、仕事の後は一緒にトランプをしていました。それが、私達の始まりです。

Greg:勿論、トランプはあなたが勝ったでしょうね。なぜなら……。

Rudi:いえいえいえ。

Greg:違う?

Rudi:とんでもない。引き分けですよ。彼女は結構強いんですよ。他にも色々。

 

John:ニナの踊りを見て、どうですか? ある種のほろ苦さがあるのでは? あなたはチャンピオンを目指し全てを賭けてきて、いま、愛するお嬢さんが頑張って頑張ってダンスをしています。あなたは(ダンス界の)政治的なことなどいろいろ知り尽くしていますし。

Rudi:そんなに易しくはありませんでした。ある日、彼女が決心して私に話してきたとき、「お願いだから、やめてくれ」と言いましたよ。彼女は、「いや、ダンスしたいの!」 考えてみれば、小さいときから私たちとブラックプールに行っていた訳だし。彼女がダンスをすると決心した時、(競技会場で)私の隣に座っていたので、聞いたんです。「今見ていた試合の結果に同意するか?」 「いや、ひどいわ!」 「それでもダンスしたいか?」 「したい」と言うので、じゃあ、「どんな結果に対しても絶対文句を言いに来ないこと」って言ったんですよ。

Greg:いいですね、いいですね。

Rudi:今日に至るまで、ほぼ、彼女はほぼ約束を守っています。コンペの結果に文句を言っていないのですから。もう一つ話したことは、観客が立ち上がり、ジャッジを吊るし上げる仕草をしたら文句を言ってもいい。観客がそうしないうちは、文句を言う権利はない。上手くなるしかないのだと。それが難しいときも確かにありますが。

 

Greg:そうした合間にも、あなたはパイロットの免許も取ったんですよね? それを使って競技会まで飛んでいくこともあるのですか?

Rudi:勿論。ブラックプールにも飛びましたし、ロンドンにも。実際、あの飛行機で世界中を飛び回りました。でも、パイロットの免許だけではなく船舶の免許も、サーフィンの免許も取りましたし、外国語も習いましたし・・・。 私は、実際のところ、じっとしていられない質なのです。何もしないでいる事が出来ないのです。いつでも何か新しいことを学んでいたいのです。ゴルフは勿論素晴らしいです。ゴルフから学ばない時がないからです。あれはいいです。

John:初めてフリートウッド(Fleetwood)でゴルフをしたときの事を覚えていますか? あなたはガート(Gurt)とやってきて、「これからゴルフをするんだ」って言うので、私が「ルディ、君は気違いか。この遊びは本当にはまるぞ」って言ったことを覚えてますか?

Rudi:勿論。

 

John:さて、ドイツに大きなダンス学校を持って長いですが、いまでもビギナーの生徒達を教えているのですか?

Rudi:ええ、本当にたまにですけど。先生が病気になったとか、教える代わりがいない場合などに限られてますがね。自分のクラスも少し持っていて、そこには長年通ってきてくださっている生徒達がいるのです。30年以上かその位長くてすごいのですが、悲しいことに、上手になるより下手になっていくんですよ。

(笑い)

Greg:いい点は、彼らはいまだにレッスン代を払い続けてくれていることです。

Rudi:そうなんです。レッスン代を払って、あまり上手にならないのです。

 

Greg:さて、あなたは2004年、2005年とブラックプールの大会で、夕方の部門の審査員としてジャッジをしました。あなたとキミンズ(ジョンのこと)は正式な ― 実際には海外からのジャッジはそれまでにもいましたが ― その時点で68年のブラックプール歴史の中でオフィシャルな海外からのジャッジでしたね。どんな気分でしたか? また、どんなことを考えましたか?

Rudi:まず非常に光栄でした。また、素晴らしい経験でした。なぜなら、審査団に対して言いたいことが言えるわけですし、皆さん非常にいい仕事をしていましたからね。一生懸命にダンスのジャッジをしていましたよ。(巷で)何を言われているにせよ、そんなんじゃありません。真剣にトップのダンサーは誰かと評価し合っているのですから。一方で、大なり小なり、私がジャッジを頼まれたのは正当だとも思いました。ブラックプールでは長年踊ってきましたし、4度も優勝していますから、一度くらいジャッジしても当然じゃないかと。二度したって。そう感じていました。誇りにも思いました。同時に、正当な評価が下されたのだとも。

それにしてもブラックプールには沢山の想い出があります。(この座談会で)ササッと見てきましたけどね。まず、私達が踊った最初はラテン・アメリカン・ダンス・チャンピオンシップで3位に入りました。いまでは、そんな事は不可能ですよ。新人が突然3位だなんてね。私達はこれ以上低い点はないというくらい最低のマークで、しかも3位になったのですから、思い出深いです。

もう一つの思い出は、マーガレット&ロバート・オハラ(Margaret and Robert O’hara)。二人にはペギー・スペンサー(Peggy Spencer)率いるフォーメーション・チームのファンがいたのです。ファンの連中はマーガレット&ロバートと一緒に動き回り、あっちのコーナーで踊れば、あっちに行って応援し、別のサイドに移動すれば、そっちで応援。こっちには、誰も応援がいないんですよ。面白い話をしましょう。私はバルコニーの一部を見上げて自分の番号を叫んだのです。自分で自分の番号をね。34番って。それを耳にした人達が、今度は私達の番号を叫ぶようになったのです。そんなことをしましたね。自分の宣伝は自分でしなくてはと。翌年、デュッセルドルフ(Dusseldorf)からフォーメーション・チームが参加するというので、彼らに、「いいか、あっちにはオハラのフォーメーション・チームがいんだ。君達、バスにビールを二樽積んで持ってきてくれ。私が払うから私たちの応援を頼む」って。みんな、ちゃんと応援してくれましたよ。面白かったですね。

Greg:いい作戦でしたね。

 

John:さて、沢山のコーチから教わってきたと思いますが、こんにち、競技をしている人達に申し渡したいような、特別な話はありませんか?

Rudi:結構真面目な質問ですね。本当にときどき思うのですが、言えることは、もしダンスを始めたのなら、続けることです。なぜなら、男性でも女性でも、カップルでも、ダンスが好きで始めたのですから。それが1番目。「もしチャンピオンになれると分かっていれば、全身全霊を込めて練習するんだが」という声を沢山聞きます。でも、そう考えている内は、チャンスはないでしょう。ダンスを愛さなくては。続けて練習しなくては。そして、ダンスがあなたの人生を充実させるのではない。あなたは食べていてもダンス、飲んでいてもダンス、眠っていてもダンスと、全てを。

「どうしたらチャンピオンになれますか」とよく質問されますが、その答えは「練習せよ」です。私達が最初のドイツ選手権で踊ったのはラテンで、3位でした。「あなたの目標は?」と人に聞かれ「世界チャンピオンになること」と答えました。「では、いつごろ世界チャンピオンに?」と聞かれ、「3年後にはなれると思うよ」と答えました。「なぜ3年といえるのですか?」と聞かれたので、「なぜなら、自分と戦っている全ての競技選手と話をし、調査をしたから」と答えたのです。実際、みんなに、いつからダンスを始めたか、毎週、毎回、どのくらい練習するかを尋ね、総合計して平均値を出して分かったことは、3年間、毎日最低6時間練習すれば良いと分かったのです。それをやりましたよ。そして、ちょうど3年目に世界チャンピオンになったのです。ラッキーでしたけどね。

私からのアドバイスは、ダンスを愛し、音楽を愛しなさい。そして、その愛することをするだけです。これが競技選手に贈るアドバイスです。

Greg:素晴らしいアドバイスです。練習を積めば積むほど幸運が舞い込むって言いますしね。

Rudi:まさにその通り。

Greg:さて、会場のみなさん。ルディの映像を見てきました。歌も聴きました。もしかして、踊りもちょっと見たくありませんか?

<拍手>

Greg:(これから踊ってもらうのは)ルディのルーティンで、時期は ― 

Rudi:オリジナルの振り付けで1967年から1968年初めまで使いました。

Greg:私達はこちらに移動してスペースを作ります。ルーィはマイクを外してください。この後ろに誰かいますね。美人ですぞ。ラッキーな人だ。さてと。会場の皆さん、メチが使っていた本物のドレスを着たニーナです。

(チャチャチャを踊る)

Greg:いかがでしたか、皆さん。無敵のラテン・アメリカン・チャンピオン、ルディ・トラウツと美しいお嬢さんのニーナでした。とても素晴らしかったです。ありがとうございます。

Rudi:ニーナ、このステップは明日(のUK選手権で)使うなよ。

Greg:本当に素晴らしい時間でしたね。皆さん、無類のダンサー、ルディ・トラウツでした。

John::さて、会場のみなさん、お別れをする前にBDFIを代表し、お越しくださったことにお礼を申し上げます。そして、最後のお別れに、トラウツ氏を再びステージにお呼びしたいと思います。ルディ・トラウツ氏です。あえて言わせていただきますが、あなたは海外から来るダンサー全員を大いに刺激し続けてきました。あなたの成功が今の私たちの下地となったからに違いありません。ありがとうございます。

 

◇ ◇ ◇

 

いかがでしたか? 楽しんで頂ければ幸いです。冒頭部の写真は以前、毛塚道夫・雅子先生のインタビューをさせて頂いたときに頂いたお二人の写真集から拝借しました。

 

 

■動画 

YouTubeにアップされている動画を見つけました。

 

ハッピー・ダンシング!